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2011年3月

2011年3月 4日 (金)

平成20年12月号 号外

「反日」を正当化する政府、マスコミ支配が続く日本

 十一月一日、次のようなニュースが飛び込んできました。

浜田防衛相、田母神空幕長を更迭=論文で「侵略国家はぬれぎぬ」―政府見解に異論十一月一日

航空自衛隊トップの田母神俊雄航空幕僚長(六十)が「日本が侵略国家だったとはぬれぎぬだ」などと主張する論文を民間企業の懸賞論文で発表したことが三一日、分かった。日中戦争での日本の侵略や植民地支配を正当化する内容で、浜田靖一防衛相は同日夜、「政府見解と異なり不適切だ。職にとどまるべきではない」と述べ、同空幕長を同日付で解任した。
 言動をめぐり、自衛隊のトップが更迭されるのは、「現地部隊が超法規的行動を取ることはあり得る」などと発言し、一九七八年に解任された栗栖弘臣統合幕僚会議議長(故人)以来。田母神空幕長は三一日付で航空幕僚監部付となり、後任は未定。
 論文は「日本は侵略国家であったのか」という題で、全国にホテルを展開する「アパグループ」が、第一回「真の近現代史観」懸賞論文として募集。賞金三百万円の最優秀賞を受賞した。同社はホームページのほか、十一月五日発売の自社発行の雑誌にも掲載、英訳も含めた論文集も出版するという。
 空幕長は論文で、「わが国は蒋介石により日中戦争に引き込まれた被害者」と強調。「穏健な植民地統治をした」「多くのアジア諸国が肯定的に評していることを認識しておく必要がある」などと続け、「わが国が侵略国家だったなどというのはまさにぬれぎぬである」と主張している。(Yahoo!ニュース)

 

このことについて、十一月三日、ネット上の産経ニュースで客員編集委員の花岡信昭氏が次のように述べています。

【政論探求】田母神氏の重い問いかけ

「日本は侵略国家であったのか」という問いかけはきわめて重い。近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文といえた。

 だが、田母神俊雄氏は空幕長を更迭された。これまでの政府見解に沿わない内容であることは確かで、麻生首相としても「立場上、不適切」と言わざるを得なかった。

 「村山談話」「河野談話」がいかに手かせ足かせになっているか、改めて思い知らされる事態だった。

 アパグループの元谷外志雄代表が社会還元活動の一環として論文を募集、実は筆者も渡部昇一氏ら四人の審査委員の一員だった。二三五点の応募作品から社内審査で二十数点がまず選ばれ、CDで送られてきた。すべての論文は筆者名が削除されていた。

 これを読み込み、二回の審査委員会で絞り込んでいった。最終段階で初めて氏名が明らかにされた。高得点となっていたのが、田母神氏の論文だった。

 実はその瞬間に、今日の事態を予感した。内容が正論であっても、現職の自衛隊トップの論文となればただではすまない。政治記者時代の直感が働いた。

 元谷氏が田母神氏に確認するという手順を経て、最優秀賞に決まった。田母神氏はそれなりの覚悟と信念を持って書いたのだった。

 もう大騒ぎしなくてもすむ時代になったのかもしれない、というかすかな期待感はあった。だが、やはりだめだった。

 朝日新聞の社説は「ぞっとする自衛官の暴走」とあった。その見出しにこちらがぞっとした。「自虐史観」「東京裁判史観」にがんじがらめになっているメディアの実態がそこにあった。

 解散時期をめぐる与野党攻防で、野党側は格好の攻撃材料を手中にした。「日本人よ、誇りを取り戻そう」という田母神氏の訴えは、政局の渦に飲み込まれることになる。

 ほとんどの政治家、マスコミは連日、田母神氏を徹底的に批判、攻撃しています。田母神氏が論文で述べておられるように、まさに「日本は侵略国家以外の何ものでもない」と自らの国を辱める事に何の躊躇も無い様子です。改革クラブの西村眞吾議員は田母神氏を擁護しています。

西村議員は自身のHPで次のように書いています。

「強い国」とは歴史の真実を堂々と明言できる国・さらば村山富市

本日十一月一日の朝刊は、歴史認識に関する二つの事件を報道している。一つは、沖縄の集団自決訴訟の控訴審判決であり、もう一つは田母神俊雄氏の航空幕僚長更迭である。
 この二つとも、我が国が未だにいわゆる自虐史観・日本悪玉論に縛られていることを示している。前者は司法が、後者は政界が、自虐史観のうんざりするほどの呪縛下にあることを示している。
 沖縄の集団自決訴訟とは、大江健三郎氏の書いた「沖縄ノート」(岩波書店)が、沖縄戦における住民の集団自決が梅沢裕陸軍少佐と赤松嘉次陸軍大尉の命令によって住民に強制されたとして両氏を厳しく非難しているのを受けて、両氏が住民に自決命令を発していないとして名誉の回復を求めた訴訟である。
 また、田母神航空幕僚長の更迭は、同氏が「日本は侵略国家ではない」旨の論文を公表したのを受けて、その歴史認識は「日本は侵略国家である」旨の歴史認識を示した村山富市談話を受け継いだ麻生内閣の歴史認識と異なる故に為されたものである。

では、歴史の真実は何か。(中略)

 次に、田母神航空幕僚長の論文であるが、産経新聞に報道されていた論文要旨を読んだが、当たり前のことを述べておられる。同感である。
 もちろん、田母神氏の論文要旨は、村山富市氏の「談話」とは内容も歴史観も異なる。しかし、そもそも、航空幕僚長たる者、村山富市氏と同じ認識であることこそ更迭に値するのである。何しろ、村山富市とは総理大臣になっても暫くの間は、「自衛隊は憲法違反」と認識していた社会党の御仁であるからだ。
 しかるに、この村山富市氏の歴史認識と反することを書いたという理由で航空幕僚長を更迭したのが現内閣である。逆ではないか。その理由は、野党が国会で幕僚長と内閣の歴史認識の違いを内閣攻撃の武器にするからであろう。
 何とも情けないではないか。そこまでしても、自虐史観の社会党的歴史認識に閉じこもらなければ国政が運営できないと思い込んでいるとは。また、自国を悪い国だという前提で内閣を攻撃しようとする野党質問の低次元さも目に見えるようだ。
 自虐史観で内閣を攻撃しようとする野党と自虐史観に閉じこもって攻撃をかわそうとする政府の閣僚。ともに、祖国への愛をもっているのであろうか。
 以上、本日の朝刊が報ずる二つの事件から、「強い日本」、「明るい日本」そして「誇りある日本」への改革とは何かが具体的に明らかになったではないか。
 その第一は、歴史の回復、即ち、自虐史観からの脱却である。であるのに、「強い日本」、「明るい日本」を所信表明で語った総理の率いる内閣が自虐史観に閉じこもってどうする。
 もっとも、現在の政治情勢の中では、航空幕僚長たる者、軽々しく、野党に武器を与えるような論文を発表するとは何事かと、苦々しく思う内閣の気持ちもよく分かる。
 しかし、それを発表してしまったのだから苦々しく思っても仕方がない。
 私は、逃げるなと言っているのだ。犬と一本道で出くわしたことがある人なら分かるだろう。逃げれば弱い犬に限って追いかけてくる。何ともないと前進すれば道をあける。
 最後に、航空幕僚長は「軍人」の最高位であるとすれば、本件も、「政治と軍事」の関係と捉えておくことも必要である。
 政治は問題解決を外交の領域から軍事の領域に移すか否かを決める。これが、シビリアンコントロールの本質である。そして、政治から目的を与えられた軍は、その目的達成の為に指揮官の命令により行動を起こすことになる。
(日本海軍の真珠湾攻撃に際して、ルーズベルト大統領は軍の最高指揮官を顧みて「君たちの領域に移す」といったといわれる。これがシビリアンコントロール発動の典型的情況である。)
 この時、その軍事目的の達成のために部下将兵のもつべき歴史観はこれだと指揮官が確信するならば、指揮官は堂々とそれを部隊に示して周知徹底しなければならない。
 仮に指揮官が、内閣のもつ歴史観によれば、部下が任務を全うできないと思えば、内閣の歴史観に迎合してはならない。迎合するのは官僚であって軍人ではない。迎合すれば軍事目的が達成できず国家の存立を危うくするからである。
 本件更迭に即して言えば、航空幕僚長が、村山富市歴史観では部下は日本人としての誇りをもつことができず軍人としての任務を全うできないと確信すれば、それが内閣の歴史観であっても従う必要はない。従えば、任務を全うできず何のために日々訓練をしているのか分からなくなるからである。
 「日本は侵略戦争を続けて悪いことをした悪い国であった。従って日本に軍隊をもたせてはならない。だから自衛隊は軍隊ではない」
 この社会党的歴史観で部下に祖国を防衛させようと思っている指揮官こそ更迭に値する。何故なら、そもそもこの歴史観では祖国のために命を投げ出して戦えないからである。
 この度の更迭であるが、航空幕僚長の思想傾向をチェックして内閣が決めた。ここで、ふと連想するのは、かつてのソビエト軍のなかの「政治将校」と言われる存在である。
 政治将校とは、部隊の指揮官達がスターリンの満足する思想を持っているか否かを監視するために政治から送り込まれる官僚のことである。部隊の指揮官達は、軍人としての能力ではなく、この政治将校のお眼鏡にかなうか否かで地位を得るか失うかがきまる。つまり、ごますりでなければ高級将校になれない。実に陰惨な組織を政治将校の思想チェックが作りあげていたのだ。
 そこで、スターリンの政治将校と同様に、我が国では村山富市の政治将校が健在で、そのお眼鏡にかなうごますりでなければ高級自衛官を続けることができないとすれば、実に馬鹿馬鹿しい。これほどの国益喪失があろうか。我が国の「村山富市の政治将校」とは政党、マスコミ、文化人そしてむちゃくちゃな判決をする裁判官である。
 航空幕僚長更迭のニュースに接し、この通り憂慮する。

 

十一月十一日、田母神俊雄・前航空幕僚長が参院外交防衛委員会で参考人招致されました。田母神論文に対する国民の関心は非常に高かったにも拘らず、この委員会はテレビ中継されることはありませんでした。唯一ネットで中継されたようですが、あまりに回線が混み合って、つながりにくくなっていたようです。また、質疑応答では田母神氏の発言は制限され、ほとんど話をする事が出来ないように仕組まれていたようです。

十一月十二日の産経新聞に『民主党の北沢俊美委員長は委員会冒頭、「決して本委員会は参考人の個人的見解を表明する場ではない。簡潔な答弁をお願いする」と語り、田母神氏にクギを刺した。これに先立つ理事会では、田母神氏が制止を聞かずに持説を展開した場合、衛視により退場させる可能性にまで言及、審議中に田母神氏の発言を制する場面もたびたびあった。』と言う記事がありました。

このような中、『自民党は十一日午前、国防関係合同部会を開き、歴史認識に関し政府見解を否定する論文を発表して更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長を擁護する意見が相次いだ。防衛省側が歴史教育の在り方を見直す考えを示すと、衛藤晟一参院議員は「歴史認識を教育するなんてことを言ってもらったら困る」と批判。岩永浩美参院議員は「田母神氏の持論がなぜ悪いのか分からない」、土屋正忠衆院議員は「(防衛省が)歴史観を対象に懲戒処分しようとしたのは問題」と反発した。』と言う記事が産経新聞と地方新聞のみに掲載されたようです。

大手新聞社やテレビ局の大半が田母神氏を否定する中、インターネット上では、田母神氏を擁護する声が非常に高まっています。田母神氏も質疑応答の中で発言していましたが、ヤフーの意識調査では、「田母神氏の論文を問題視しない」と言う人が全体の六割を占めていました。またこれを機会に正しい歴史認識がなされるべきだ、という意見が数多く見受けられます。

これらのことから見えてくるのは、政府やマスコミは日本国民が過去の歴史的事実を正しく判断することを恐れ、巧みに自虐史観を持ち続けるように仕組んでいるということです。

現役の自衛隊幕僚長の地位を投げ打ってまで持論を主張するということは、信念がなければできないことと思います。そこまでしなければならないという田母神氏の強い思いが伝わってきます。

多くの日本国民はマスコミによる偏った情報からしか世の中のことを知る術がありません。田母神氏のように国防を預かる立場の自衛隊の方々が、「日本は侵略国家であったのだ」という罪悪感を抱きながら、武器を持って国を守る事ができるでしょうか。田母神氏は自衛官が自国に誇りを持って仕事をするためには、正しい歴史認識が必要であると言うことも述べています。

田母神氏の論文は全て事実であることは確かです。

大東亜戦争は侵略戦争ではありません。戦前の地図を見れば欧米諸国が侵略国であることは一目瞭然でありながら、それを棚に上げて、日本に勝利した事によって逆に日本が侵略国家であるとして、自らの罪を日本になすりつけてきたのです。

朝鮮は併合であり、台湾は日清戦争の賠償品、南樺太、関東州、南満鉄の経営権も全て日露戦役の賠償品です。その外、南洋群島は第一次世界大戦の委任統治であり、何一つ欧米のような手段で得たものではありません。

東京裁判において十一人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した意見書(通称「パール判決書」)を作成したパール判事(インドの法学者、裁判官)はその判決書の中で次のように述べています。

「戦勝国は敗戦国に対して憐憫から復讐まで、どんなものでも施し得る。しかし勝者が敗者に与える事ができない唯一のものは正義である」また、日本国民に次のような金言を贈りました。

「欧米諸国は、日本が侵略戦争を行ったと言う事を歴史にとどめることによって、自分等のアジアの侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の十七年間の経緯を、罪悪と烙印する事が目的であったに違いない。

・・・私は一九二八年から四十五年までの十七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には恐らく日本人の知らない問題もある。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかる筈だ。

 それなのにあなた方は、自分等の子弟に『日本は犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史を、どうか私の判決文を通じて充分研究して頂きたい。

 日本人の子弟が歪められた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れて行くのを私は平然と見過ごすわけにはいかない。誤られた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。」

 パール博士の言うように、また田母神氏の勇気ある発言をきっかけにして、今こそ日本国民は欧米や中国、朝鮮の日本誹謗の宣伝を払拭して、歴史の真実を探求し、歴史の真実に目覚めなければ、明日の日本は亡国へと歩を進めることになるのではないでしょうか。

 

「日本は正しい」と言う小冊子の中で、鄭春河(ていしゅんか)さん(大正九年生まれ、台湾人)が大東亜戦争において、日本は民族解放に世界的貢献を果たしたと言う事で次のように書いています。

 

 大東亜戦争の真の勝利者は日本で、敗戦者は戦勝国の欧米諸国であると彼らは自認している。正しくその通りだ。戦勝国は果たして何を得たか、目的を達成したか、日本は敗れても目的と理想は完全に達成している。即ち欧米諸国の東洋制覇の野望を覆し、植民地政策を崩壊させ、弱小民族の独立と今日の繁栄をもたらした事実は、何人と言えども否定できない。

 詳しく述べれば戦後わずか五年で、インド・パキスタン・セイロンを含む東亜の諸民族はことごとく独立した。地殻変動というか、その民族解放のマグマはアラブ、アフリカに及び、さらに中南米に波及して、今や国連加盟国は発足当時の五十二ヵ国から三倍以上になっている。世界三十億人の有色民族が独立開放を果たした。即ち大東亜戦争は、民族解放に世界的貢献をしたのである。さらにこれを詳しく説明せんがために、高千穂大学教授名越二荒之助先生のお許しを得て、先生の御高論を、以下に引用させていただくことにした。

イギリス・タイ・韓国の識者の評価(「植民地解放への貢献」『真世界』より)

 

 その他歴史的意義としてよく語られる事に、植民地の解放をもたらした事実が挙げられます。イギリスの歴史学者H・G・ウェルズは戦後早くも「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種のとの平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた」と述べております。

 またククリッド・プラモードというタイ国の元首相は、現地の新聞「サイヤム・ラット紙」に「十二月八日」と題して、もっと端的に感動的な一文を発表しております。「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話しができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」

 もう一人、韓国の朴鐵柱氏(平成二年一月逝去、六十八歳)を紹介したいと思います。氏は戦前日本の教育を受け、戦後はソウルで「韓日文化研究所」を設立しました。昭和四十二年十月、私は学生を連れて研究所を訪ねたことがあります。反日感情渦巻く韓国にあって、氏は「親日派」というよりも、「崇日派」というべき人物でした。氏は日本の学生を前に二時間、熱誠溢れる懸河の弁を奮いました。

「ソウルから日本をながめていると、日本が【心】と言う字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心と言う字に並んでいるのではないか。日本は万世一系の御皇室を戴き、歴史に断絶が無い。それに対して韓国は、断絶に次ぐ断絶の歴史で涙なくしては見ることは出来ない」と前置きして、日本の歴史伝統の素晴らしさを総括し、大東亜戦争に移りました。「現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それをのむ事は屈辱を意味した。【事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし】と言うのが開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争と大東亜戦争――この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎる事はない」

 このように、戦後教育でしきりに植えつけられた「第二次世界大戦は日本のアジアへの侵略戦争であった」という思想は、真実と真反対の事であり、真実は「大東亜戦争とは欧米のアジア植民地支配からの開放の戦い」に他ならなかったのです。

 永野修身命(開戦時、軍令部総長)は一九四一年九月六日の御前会議において、次のように述べました。

 

「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

 

 また、A級戦犯で受刑中病死した当時外相であった東郷茂徳命は獄中で次のような歌を詠みました。

 

「いざ児等よ 戦う勿れ、戦わば 勝つべきものぞ。ゆめな忘れそ」これは、勝てない戦いは絶対にやってはいけない、もし負けたならば、謂われなき罪まできせられる、と述べたものです。

 現在、日本人を腐らせているのは、劣等感であり、この劣等感は精神も麻痺させているのです。

 私達は今一度考えなければなりません。

今日の日本、繁栄日本の礎となってくれた英霊たちへの感謝と祈りを!

そして、先人の築いた文化と誇りを!

平成20年12月号

十一月の陰陽會の祭典及び行事

十一月三日 明治祭 執行

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十一月二十三日 新嘗祭 斎行

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十一月二十三日 日本復興祈願祭 執行

十二月の陰陽會の祭典及び行事予定

十二月二三日   天皇御誕辰奉祝祭・天長祭

十二月二四日   大正天皇多摩陵遥拝式

十二月三一日   師走大祓式・除夜祭

天長節・天長祭(天皇誕生日)

天皇陛下の御誕生日に長久繁栄をお祈りする祭祀です。敬神崇祖の根本精神と伝統に基づいて継続されているものです。

一九五〇年十二月、馬術競技を行なう明仁親王殿下。

馬の名は「白雪」号(写真)

今上陛下は、昭和八年十二月二三日昭和天皇と良子皇后(香淳皇后)の第一皇男子として、宮城(現・皇居)内の産殿にて御誕生なさいました。

名、明仁・幼名、継宮・お印、榮

昭和二三年十一月十日、明仁親王が皇太子である事を内外に宣命する「立太子の礼」と「成年式」が行われました。

昭和三三年十一月、皇室会議で皇太子妃に正田美智子さんが正式に内定、翌年一月、「納采の儀」を経て、四月十日、「結婚の儀」が行われました。

昭和六四年一月七日、十二指腸乳頭周囲腫瘍により、昭和天皇崩御(享年八七)。皇太子明仁親王はただちに践祚し、第一二五代の皇位につかれました。翌日、元号を平成に改め、翌年平成二年十一月一二日に「即位の礼」が、同月二二・二三日に「大嘗祭」が行われました。

平成20年11月号 号外

日本人の宗教観について

九月、十月の二回、NPO法人にっぽん文明研究所からのご案内により【宗教間の対話】異文化交流の夕べ(仏教・神道・イスラーム)ということで、様々な宗教を信仰する人たちの集まりがあり、二人で参加して参りました。

この会はイスラム教徒のフユマン・A・ムガールさん(イスラーム評論家・ムガール帝国の末裔)が中心となって開催されたものです。ムガールさんはテレビなどにもご出演なさっておられるそうで、日本女性と結婚され、現在は福岡にお住まいで、流暢な日本語を話されました。福岡では十年以上、異なる宗教者の対話を続けているそうで、この度東京にもその輪を広げたいと言う事で開催されました。

第一回目の始まりの際、イスラム教の祭司が何名かのイスラム教徒と一緒に礼拝を行ったのですが、間近に見たのは初めてでしたので興味深く拝見しました。この礼拝は一日に五回することが義務になっているそうです。

日本人にとって、神道や仏教は馴染みがありますが、キリスト教というと少し縁遠い感じがし、ましてイスラム教などは縁もゆかりもない、と言う気がします。特に中東の様々なテロ活動という視点でのマスコミの報道によって、危険な宗教というレッテルを貼られているとも言えます。

ムガールさんらは、このイスラム教に対する偏見を無くす為に、また真のイスラム教を知ってもらいたいという観点から、このような宗教間の対話を企画されていると言うことでした。

確かに、実際にお会いしたイスラム教徒の方々は、マスコミの報道とは全く異なった、非常に温和で更に日本の有名大学を幾つも卒業されているような優秀な方々ばかりでした。またイスラム教は決して争いを助長するような宗教ではありませんでした。

ところでイスラム教では多くの戒律があり、それを守っていく事で来世に天国に行くことが出来ると信じられているようです。逆にそれらを守らなければ地獄に行く、ということでもあるようです。

イスラム教徒の方から、多くの日本人は「私は無宗教です」と言われ、彼らからしてみると「無宗教」では自らを律する事ができないので、悪事がはびこり、従って現代の日本の道徳心の欠如はこの「無宗教」に原因があると思われるので、是非宗教を持って欲しい、と言われました。

それを聞いて日本人は果たして本当に無宗教なのだろうか、と考えてしまいました。外国人には分りにくいかもしれませんが、日本人は生活習慣の中に様々な宗教的な人生儀礼(初宮から葬送儀礼まで)を取り入れており、無意識の内に宗教心を持っていると言えます。

人が生まれた時、あるいは成長の節目ごとに、子供の健やかなる成長を願う感情、また、自分が現在存在していることに祖先に感謝する心、いつまでも見守っていてほしいと願う気持ち、大いなる自然に対する畏怖心、これらすべて見えない存在に対する宗教心ではないでしょうか。

また日本人の神に対する考え方は一神教のように「神に祈る」のではなく、「神にご加護を祈念する」と言うように親に見守ってもらうような感覚ではないでしょうか。

いわゆる日本人が「宗教」と考えるものは「教祖・教典・教団がある宗教」であり、生活に溶け込んでいる宗教的行事の宗教は「いつ誰によってはじめられたか分からない、自然発生的宗教」と言えるでしょう。ですから欧米やその他外国人が言う「無宗教」「無神論」とは全く次元を異にしていると言えます。

舊事先生がイスラム教の祈りを音で聞いた際(内容は全く分らないので)、「とても不毛の地をイメージさせるものだ」と言っていました。確かに中東地域は日本とは真反対の環境だと言えます。

四季があり、豊かな水があり、あらゆる作物が豊かに実る日本においては、自然そのものが神であり、豊かな実りを与えて下さる存在だと考える方が自然です。神が罰を与える存在だとは考えにくいでしょう。

不毛の大地に生きる人々は、現世ではなかなか豊かな生活をすることができないので、現世では我慢をして、来世に天国で幸せに暮らしたいと考えているようです。

イスラム教の考える天国とは次のようなものでした。

「天国の世界は我々の想像を超えた素晴らしいところです。それは大変明るい世界で、果物が豊富にあるとか、緑が多く、天気がいつも良く、暑くもなく寒くもなく、豪華な絨毯が敷かれていて、快適な乗り物があり、永遠に若い少年たちにかしずかれ、女性たちも皆若く美しく、どんなに飲んでも悪酔いする事のない飲み物がいくらでもあり・・・また、絶える事のないきれいな水の川があり・・・それらに囲まれて人々はお互いに仲良く平和に暮らしています。・・・」

自然豊かな日本は、イスラム教の人々が考える天国のような国ではないかと思えます。

オーパーツ(考古学上その成立や製造法などが不明とされたりするもの)に次のような物があります。

イギリス・ヘレフォード地方の寺院に【東を上にして世界を円形にした一枚の古地図】が伝わっている。その一番上の日本列島にはHEBENN(天国)と書かれていると言う。

2010年11月号

十月の陰陽會の祭典および行事

十月十一日     十三夜祭 執行

十月二十日 皇后陛下御誕辰祭 執行

十月二十日     恵比寿祭 執行

十一月の陰陽會の祭典及び行事予定

十一月三日     明治祭 執行

十月二十三日 新嘗祭 執行

明治節・明治祭とは

明治天皇さまの御遺徳を偲び、御生誕の十一月三日に斎行する祭典です。

明治天皇さまのご略歴

嘉永五年九月二二日(一八五二年十一月三日)~明治四五年(一九一二年)七月三十日

名は睦仁。
孝明天皇の第二皇子。
母は権大納言中山忠能(ただやす)の娘・慶子(よしこ)。京都の中山邸でお生まれになり、祐宮(さちのみや)と命名されました。
万延元年(一八六〇年)皇太子となり睦仁と改名されました。幕末の倒幕運動の高まりの中で孝明天皇が急死し、慶応三年(一八六七年)一月、践祚して皇位を継承し、第一二二代天皇となられました。

徳川慶喜の大政奉還後、同年十二月、王政復古により新政府を樹立し、一八六八年九月、『明治』と改元。
翌月には、京都から東京に移り江戸城(のち宮城)に入られました。近代国家の建設の進む中、ヨーロッパ的君主としての教育を受けられました。

明治二二年(一八八九年)欽定憲法として発布された大日本帝国憲法により、天皇は国の元首で統治権の総攬者と定められ、文官・武官の任免、陸海軍の統帥と編制、条約の締結、宣戦・講和などの大きな権限を保持し、国務大臣の輔弼ほひつと帝国議会の協賛によりこれを行使なさいました。
日清戦争では広島の大本営に起居し国務・統帥にあたられました。
明治四五年(一九一二年)七月二九日崩御。(宮内省の公式発表は七月三十日崩御)九月一三日に大葬。

新嘗祭とは

新嘗祭は古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を天照大神をはじめとする天地の神に供え農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式でした。律令制度のもと十一月の二番目の卯の日に新嘗祭を行うことになっており、天皇が即位した最初の新嘗祭を大嘗祭と呼び天皇の即位を天下に知らしめる大きな祭典となっています。新嘗祭がいつ頃から行われていたかははっきりとしないのですが、日本書紀で皇極天皇元年(六百四十二)十一月十六日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初です。この日の干支は丁卯にあたり、すでにこの時代に十一月の二番目の卯の日が新嘗祭と確立していたようです。明治以降、新嘗祭は十一月二十三日に定められ国民の祝日となります。そして昭和二十三年より勤労感謝の日と名を変え「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日として国民にすっかり定着した祝日となっています。本来、この新嘗祭は宮中だけで行われていた儀式ではなく一般民衆の間でも新しい穀物を神に供えそれを食べて収穫を祝う習慣がありました。「風土記」や「万葉集」にもその様子が描かれており現在も年迎え的な行事として能登半島の「あえのこ」や関東地方で行われている「十日夜」が残っています。

平成20年10月号

九月の陰陽會の祭典および行事

九月九日 重陽祭 執行

九月十四日 十五夜祭 執行

九月十五日 敬老祭 執行

九月三十三日 例祭・晴明桔梗まつり 斎行

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滞りなく、第三回晴明桔梗まつりを斎行致しました。平成二十年九月二三日〈秋分〉安倍晴明公のご命日(九月二六日〉を記念して秋分の日に斎行致しました。
国家の安泰、皇室弥栄、世界の平和、神恩報賽〈今あるを御祭神に感謝)に加え、尚一層皆様のご健勝と御発展を御祈願するものです。

十月の陰陽會の祭典及び行事予定

十月十一日     十三夜 執行

十月二十日 皇后陛下御誕辰祭 執行

十月二十日     恵比寿祭 執行

神無月とは

古くから我が国では十月を神無月(かんなづき)と言います。これは十月に日本中の神様が、出雲の国(現在の島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様が居なくなってしまうことからそう呼ばれてきました。神様の集まる出雲の国では反対に十月は神在月(かみありづき)と呼ばれています。この会議は旧暦の十月十一日から十七日までの間、出雲大社で開かれ、その後、佐太神社に移動し二六日まで会議の続きを行います。その期間に出雲大社と佐太神社では神在祭が行われます。

この神様の会議が行われるようになったのは大国主神が日本の国土を開発した神様でその時自分の息子や娘を各地に配置し、その地を管理させたことに由来します。子供たちは年に一度出雲の国に戻り、父親である大国主神にその年の出来事を報告し、来年の予定を打ち合わせするようになったのです。後に大国主神系以外の天照大神系の神様も出雲へ来るようになりました。

大国主神は天照大神に日本の支配権を譲ったとき、代わりに幽界の支配権を得たと言われています。物質的な物事については天照大神とその子孫である天皇家が管理しますが、精神的な物事については大国主神とその子孫が管理します。そこでこの会議では一般的に人の運命について話し合われます。なかでも誰と誰を結婚させるかなどと言うことをこの会議では議題に上ります。遠く離れた見知らぬ同士が知り合い結婚するようなケースはこの会議の結果からかもしれません。そのため、出雲大社は縁結びの神様としても信仰されています。

衣替え

季節に応じて衣服を改める「衣替え」。
六月一日に夏服に、十月一日に冬服に替えるのが一般的です。
地方によっては、夏服を身につけて神様に参拝する「衣脱ぎ朔日」或いは「剥け節供」などの風習が残っています。
剥け節供は蛇が脱皮するので桑畑に入ってはいけない日で、人も衣を脱ぎお祓いをすることになっています。
またこの日は、「鬼の骨」と呼ばれる干し餅を食べる歯固めの日でもあります。
衣替えの制度が出来たのは、平安時代以降で、宮廷で習慣化しました。陰暦四月一日に夏装束に、十月一日に冬装束に、調度品ともども改めるのがしきたりでした。
衣替えの元は、物忌み(ものいみ)の日に行っていた祓への行事で、現在でも多くの神社では、神様の衣替えである更衣祭が行われています。衣服とともに気分を一新して新しい季節を迎えるのは、開運に欠かせない一つの祓への形です。

平成20年9月号

八月の陰陽會の祭典および行事

八月一日     八朔符の頒布

八月十五日  戦没者慰霊と世界平和祈願祭執行

 

世界平和祈願祭を執行

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戦争の記憶が風化してゆく中、日本人にとって八月十五日という日は決して忘れてはならない日でもあります。世界中の多くの戦没者の方々の御霊を慰霊する意味においても、大変重要なお祭りです。

九月の陰陽會の祭典及び行事予定

九月九日   重陽祭 執行

九月五日   敬老祭 執行

九月二十三日   第三回 例大祭晴明桔梗まつり 執行

例大祭晴明桔梗まつり

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毎年九月二十三日(秋分の日〉に、安倍晴明公のご命日《九月二十六日》を記念して例大祭・晴明桔梗まつりを斎行致します。一年に一度の大切な御祭礼です。

国家の安泰、皇室弥栄、世界の平和、神恩報賽(今あるを御祭神に感謝)に加え、尚一層皆様のご健勝と御発展を御祈願するものです。

重陽の節句

重陽の節句というのは、九月九日に行われる節句のことです。
九月九日は陽数の極、つまり、一番大きな奇数である九が重なることから「重陽」といわれ、別名「重九(ちょうきゅう)」ともいわれています。旧暦の九月といえば晩秋です。邪気を払い、寒さに向かうこの時期に、無病息災を願い、防寒の意味もこめて、この重陽の節句は行われました。重陽の節句は菊花宴ともいい、山中 裕氏によれば、天武十四年(六百八十五年)を起源とされています。

さて、宇多天皇の御代からは、菊の着せ綿(「被綿」とも)という慣習も見られるようになりました。菊の着せ綿というのは、その字のとおり、菊に綿を着せる、つまりかぶせることを指します。
具体的には、九月八日の夜に、菊の花に綿をかぶせておくのです。そうしますと、一夜明けた翌九日の朝には、その綿は露を含んでしっとりと濡れているというわけですね。当時はこの綿で肌をぬぐうと、老を棄てることができるとされていました。ちなみに、この綿は「真綿」つまり蚕の繭からとった絹綿のことであり、今なら、さしずめシルクパフというところでしょうか。そう考えますと、確かに美容効果もありそうな気がします。さて、紫式部日記には、寛弘五年の九月九日に、道長の妻の倫子から紫式部に菊の綿が贈られた記事が見られます。

       
九日、菊の綿を、兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とり分きていとよう、老拭ひ捨て給へと、のたまはせつる」とあれば、菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむとて、かへし奉らんとする程に、あなたに還りわたらせ給ひぬとあれば、ようなさにとどめつ。 
殿の上というのが倫子です。倫子からのプレゼントを持ってきた兵部のおもとが言うことには、倫子は 紫式部に対して特別に「いとよう、老拭ひ捨て給へ」つまり「この菊の綿で、よくよく老を拭きとってお捨てなさい」というメッセージを添えて、菊の綿を贈ったということです。紫式部はそれに対して、「私はこの菊の露に、ちょっと若返る程度袖をふれさせてもらえれば結構です。千代の長寿はこの花の持ち主でいらっしゃるあなたさまにこそお譲りいたしましょう」という歌を添えて、この菊の綿をお返ししようとしました。けれども、倫子はすでに中宮の所から自の部屋に戻ってしまわれたと聞き、そのまま手元に置くことにしたという内容です。

平成20年9月号 号外

日本列島に頻発する地震と異常気象!

二〇〇八年六月十四日に、震度六強の「岩手、宮城内陸地震」が起きました。

また、今年は梅雨明けまでは例年よりも気温の低い日が続き、その後は例年にまさる猛暑で、多くの人々が熱中症に倒れるという極端な気温が続いていましたが、八月下旬には突然、十度以上も気温が下がり、特に八月二十八日から数日にわたって、誰も経験したことのないような記録的な豪雨と雷が鳴り響きました。この豪雨で、日本中の多くの場所で、床下、床上浸水や、土砂災害を含む、数多くの被害が出ました。

       

近年、地震、台風、局地的な豪雨など、誰もが「今まで生きていて経験した事がない」と言うほどの天変地変が日本にも起きています。それぞれの事にそれぞれの原因が考えられますが、特に「岩手、宮城内陸地震」と、この度のほぼ日本列島全域に及んだ局地的な豪雨は次のことが引き金になって起こりました。

それは、東京国立博物館 平成館 (上野公園)で、二〇〇八年三月二十五日~六月八日まで開催された、平城遷都千三百年記念「国宝 薬師寺展」です。

この展覧会の概要は次の通りです。

薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って天武天皇九年(六八〇)に創建を発願した由緒ある大和の古寺です。はじめは藤原京に伽藍が造られましたが、養老二年(七一八)に平城京に移されて現在に至り、平成十年(一九九八)には、ユネスコの世界遺産に登録されました。薬師寺には、金堂の薬師三尊像や東院堂の聖観音菩薩立像などをはじめとする名宝が、大切に保存されつづけ今日に伝えられています。
本展覧会は、平城遷都千三百年を記念して開催するもので、日本仏教彫刻の最高傑作のひとつとして知られる金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)がそろって寺外ではじめて公開されます。また、聖観音菩薩立像(国宝)、慈恩大師像(国宝)、吉祥天像(国宝)などの仏像、絵画の至宝に加えて、神像の名品として名高い八幡三神坐像(国宝)や草創期の寺の姿をたどる考古遺物など薬師寺の貴重な文化財をご覧いただけます。
日本人の心の故郷ともいうべき「まほろば」奈良の都。その中でも最も古い薬師寺の歴史と美のエッセンスをお届けします。(東京国立博物館HPより抜粋)

「薬師寺はその恩に報い、生き辛い時代を生きる人々の心の浄化に役立てたらと史上初の日光・月光菩薩そろっての公開を決断した。」(NHKスペシャルHPより抜粋)

このように、日光・月光菩薩立像をはじめ、本来奈良の薬師寺にあるべき多くの仏像や絵画等が東京に動かされたわけです。これはあるべき場所になければならないものが、その場所を動かした事で、封印が解かれ、これらの仏像や絵画等に憑依している悪霊や付喪神(つくもがみ)が動き出し、祟り神、疫病神(えやみがみ)、流行神(はやりがみ)として日本中に災厄をもたらしているのです。 そもそも、寺や仏像、仏画など、仏教にまつわるものは、偶像崇拝によって悪霊の巣となっています。この度の日光・月光菩薩は、もともと薬師寺と言う寺の中で、背中に「光背」をつけて封印された状態で、安置されていたものです。それを「光背」を外して、人間のような姿にして封印を解き、寺から出してしまったのですから、取り返しのつかないことをしてしまったのです。

明治時代、岡倉天心によって、それまで「信仰の対象」であった仏像や仏画が「美術品」であるというような認識が広まり、定着して現代に至っています。

そもそも寺や仏像が作られた背景には、国家鎮護、人心の乱れ、病気平癒など、国運を左右するほどネガティブな状況を封印することが目的で建立されたものが大半です。人々に災厄をもたらす、目に見えない危うい悪霊を鎮める目的に作られたのですから、必要な場所に必要な物を置いたわけです。

これらの霊的な問題を全く無視して、仏像を単に「美術品」として扱う事が、どれほど恐ろしい事なのかを、今、私達は身をもって知らされているのです。

この日光・月光菩薩像の祟りによって、今後日本中に地震や落雷など、今までに経験したことのないような天変地異や疫病などの流行が予想されます。

これらのことを出来るだけ未然に防ぎ、災いを少しでも軽減する為に必要な事は、これらの祟り神に同調しないよう、できるだけポジティブになることと、少しでも波動を高く保てるようにすることしかありません。

当会では、地震之災除

(なゐのわざわいよけ)

、神鳴除(かみなりよけ)

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、水難・火難除をはじめ、様々なに関わるご祈願を随時承っております。このようなご祈願で、今後起こりうる災いを少しでも避ける事が可能になることでしょう。

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平成20年8月号

七月の陰陽會の祭典および行事

七月二十二日    結婚感謝祭 執行

八月の陰陽會の祭典及び行事予定

八月十五日    世界平和祈念祭 執行

終戦ノ詔書(原文・昭和天皇御音放送より)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク  朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ  抑〃帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カザル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ犯スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各〃最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スベシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ  朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ哀情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒテ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス  朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱シ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ 

終戦の詔書(口語訳)

日本国民の平和と安寧をはかり、世界各国と共に栄えることは、皇祖皇宗からの教えで、私も一生懸命そうしようとした。先に米英二国に宣戦したのも、日本国の存続と東亜の安定とを願ったためであり、ポツダム宣言に書かれているような、他国の主権を排除して、領土を侵すようなことは、もとより私が考えても見なかったことだ。 しかしながら、戦争がすでに四年も経過した今、陸海軍の将兵は勇敢に戦い、百僚有司の励精や一億国民一人ひとりの奉公、いずれもが最善を尽くしたにも拘らず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢もわが国に有利とはいえず、そればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない一般市民を殺傷し、惨害の及ぶ所まことに測り知れないことになった。このまま戦争を続ければ、遂にはわが民族の滅亡を招くばかりではなく、ひいては人類の文明までもが破壊されてしまうだろう。そのようなことになれば、わが子とも言うべき国民の命を預かっている私は、皇祖皇宗の神霊に対して申し訳のしようもないことになる。それが政府にポツダム宣言を受諾させた理由である。 私は日本国と共に、終始東亜の帝国列強からの解放に協力して戦ってきた諸国に対して、力不足を非常に残念に思う。また日本国民で戦陣で死んだり、職域に殉じたり、非命に斃れたりした者、及びその遺族のことを想えば、はらわたを引き裂かれるような痛みを覚える。更に戦傷を負い、災禍を蒙り、仕事を失った者が、今後どのように立ち直れるかということに付いて最も心配している。 日本がこれから受けるであろう苦難は、尋常なことではあるまい。国民達の無念も私にはよくわかる。然しながら、事ここに至っては、堪えがたきを堪え、忍び難きを忍んで、将来のために太平を開こうと思う。 私はここに国体を護持し得えて、忠義の心の厚い国民の真心を信頼して、常に国民とともにある。万が一にも、激情の赴くままに勝手な行動をとったり、或いは日本人同士で争ったりして、時局を乱し、そのために大道を誤って、世界の信用失うようなことは、私が強く戒めることで、ぜひ慎んでほしい。どうか挙国一家、子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、その任の重いこと、長い道のりを自覚して、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に遅れないように努めてほしい。どうか私のこの意を体してほしい。「身は如何になるともいくさとどめけりただ斃れゆく民を思ひて」

平成20年6月号

五月の陰陽會の祭典および行事

五月五日   端午祭 執行

お子様の一年間の病気や災厄を祓い、健やかな成長と利発さや美麗が授かるようにご祈願申し上げる祭典です。

六月の陰陽會の祭典及び行事予定

六月三十日   名越の大祓式 執行

水無月(名越)の大祓

 

我国の神道(惟神道・かむながらのみち)は、祓ひに始まり、祓ひに終わります。

一年の始めにあたり、師走の大祓をします。これは正月に家に様々な徳をもたらす歳神様をお迎えする前に身も心も清々しく清い心になって、新しい歳を迎えるという大切な神事です。
そして六月、水無月の大祓は、お盆に帰ってくる先祖をお迎えする前に身を清める為のものです。
祓ひによって清々しくなった様を「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠んだ和歌があります。

これは、西行法師が詠んだとかまた詠み人知れずとも言われています。

また、、「内外清浄になりぬれば、神の心と我が心と隔てなし」(大神宮参詣記)という心境に達することが神道の極意だとも言われています。神様の前に立って祓ひを受けたら何もかも欲が無くなり、無になって、赤子のようになってしまったというさまを表しています。祓ひによって普段欲にまみれた生活から一旦綺麗な身に戻ることは、大変大切なことです。

「水無月の夏越の祓いする人は千歳の齢延ぶといふなり」という歌にも詠まれている通り半年間の穢れを祓い、神様からのご利益をいただくことで夏の辛い暑さをのりきり、残りの半年間も健康に息災に過ごそうという神事でもあります。

  

大祓祭では大麻(オホヌサ)・綿(ユウ)八針に取り裂きの行事があります。

祓えつ物(はらえつもの)として布を差し出し、切り裂いて祓います。「祓ひ」には身に付いたものを取り払う意味の他に、犯した罪の代償を払うという意味もあります。
ご神前に絹や木綿の布を差し出し、代償を払うことが、古来より行われてきました。古くは、古事記で乱暴を働いたスサノヲ命が、祓えつ物としてたくさんの物と自分の髭と爪を差し出しています。

大祓詞の中に「天つ菅麻(すがそ)を八針に取りさきて」を表現するように布を切り裂きます。

清浄に二義あり、内清浄・外清浄をいふなり

「正直」と「清浄」との二徳が、神道では重要な意義をもつことは先に述べたとおりです。そして、この「清浄」には「内清浄」と「外清浄」とがあると言われています。
内清浄とは、心(精神)の持ち方についての清浄であり、外滑浄とは形(身体)の持ち方についての清浄です。身体に水を浴びて「みそぎ」をしたり、世俗から離れて飲食などをつつしみ、精進潔斎の生活をするのは厳重な清浄を保つための手段です。大きなお祭りを前にして、神職やおまつりに参加する人たちがおこもりをすることがあるのもこのためです。また神社には、手水舎があって、参拝の前には口をすすぎ手を洗って身を清めます。これも潔斎の一つです。しかし、大切なことは、形だけの潔斎ではならないということです。心の潔斎も忘れてはなりません。

大祓は我々が日々の生活の中で知らず知らずの内に犯してしまった諸々の罪をあがない、様々な災厄の因を祓い除くための大切な神事です。陰陽會の大祓は、通常の浄化とは異なり、かなり強烈な祓ひを行います。知らず知らずに犯した罪、穢れなどのネガティブを断ち切ることが可能ですので、是非、お勧めいたします。また、六月から七月は穢れの溜まりやすい季節です。振るってご参加下さい。

平成20年5月号 号外

会員のNさんから嬉しいお話をして頂きましたのでご紹介します。

Nさんのお孫さんにあたるKちゃんのお話です。Kちゃんは今から七年前、この世に生まれてきました。ところが生後約一年経っても成長が思わしくなかったので、お医者さんに診てもらった時、生まれてからほとんど発育していない、という診断結果だったのです。

その時Nさんからご相談を受け、舊事先生がKちゃんのお宅に伺ったところ、原因はお母さんが身籠ったアパートの片隅にあった祠(ほこら)が大きな原因の一つでした。そこで先ず、式神による呪法で祠による悪影響を絶ち、浄化を始めて今日に至っています。

この七年の間、色々なことがありました。Kちゃんが身体的、知能的にどのような状態にあるのかということについて、Kちゃんのご両親をはじめ、まわりの方達の心配は尽きる事がありませんでした。まわりのお子さん達がどんどん成長していく中で、なかなか立つ事ができない、歩く事ができない、話をする事ができない、書くことができないなど、お母さんのとまどいと不安はどれほどだったかと思います。

何度もご相談をされましたが、その都度、舊事先生は「他のお子さんと多少は発達が遅れているかもしれませんが、人は皆それぞれ異なります。浄化を続けていけば必ず良い方向に向かいますから、できるだけ周りと比較しないで、Kちゃんにしてあげられることを精一杯してあげて下さい。また、Kちゃんが楽しく過ごしている姿や学校に通っていることを強くイメージして下さい。」と励ましてこられました。

七年の間にご報告頂いた事は、本当にたくさんあります。Kちゃんが幼稚園に行くようになった頃、話をする事はできなくても、とても記憶力に優れていて、大人が忘れてしまった道筋も全て覚えていて教えてくれたり、水泳を習い始めて、どんどん上手になってお母さんが思っているよりも泳げるようになったり、何より、幼稚園では先生やお友達の間で「Kちゃんは天使のように、みんなを明るくしてくれる」と皆から可愛がられていたことなどです。

昨年、小学校に入学する際には、お母さんとしては何とか普通学級に入れてあげたい、ということでしたが、昨年の時点では話をする事と字を書くことがまだできなかった為に、それは叶いませんでした。けれども能力的に可能になれば、いつでも編入できると言う柔軟な考え方をしてくれる小学校に入学できたと言うお話でした。そして先日Nさんから、Kちゃんは最近少しずつ話が出来るようになり、さらに一から四十までの数字を書くことが出来るようになったと伺いました。Kちゃんは話ができることが本当に嬉しそうで、朝から晩まで、ずっと話し続けているとのことです。まさかKちゃんが言葉を話したり、文字を書いたりすることができるようになるなど以前には考えられない事でした、と喜びを語ってくれました。

これからもKちゃんが益々、その個性、能力を発揮して、素晴らしい人生を送れることを願っています。

  

この度のことで改めて舊事先生の「浄化」ということについて説明したいと思います。

舊事先生の「浄化(方術)」あるいは「ご祈願」、また陰陽會の「授与品」が、皆様に様々な『事態の好転』を起こすには理由があります。

①会員の皆様のポジティブ(前向き)な考え方、行動力がとても重要です。

②舊事先生が平安時代の古代陰陽道の呪法によって、ご祈願や方術を行うこと。

③御祭神であられる安倍晴明公のご加護。

この三つの事柄が三位一体となって、会員の皆様の想いが、具体的に結果となって現れているのです。

Kちゃんの場合も、お母さんをはじめ、ご家族や周りの方々の大きな努力があったことは明らかです。

また、あきらめずに「浄化」を続ける事が、必ず事態を好転させることにつながります。

これからも舊事先生の陰陽道の方術によって、一人でも多くの方が、明るく楽しく、希望に満ちた人生をお過ごしになれますよう、願ってやみません。

平成20年5月号

四月の陰陽會の祭典および行事

四月三日     神武天皇遥拝式 執行

四月二十九日    昭和祭 執行

 

昭和祭 執行

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五月の陰陽會の祭典及び行事予定

五月五日   端午祭 執行

端午の節句とは

端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、五月に限ったものではありませんでした。しかし、午()と五()の音が同じなので、毎月五日を指すようになり、やがて五月五日のことになったとも伝えられます。

当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。五月五日の端午の節句に「鯉の吹流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を 飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からです。
五月五日の節句は、五と五を重ねる事から「重五」、菖蒲を用いる事から 「菖蒲の節句」などと呼ばれています。「五」と「午」が相通ずることか ら、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書きました。菖蒲は薬草で、邪気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句にはヨモギと共に軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音が通ずるために、盛んとなりました。平安朝のころから、子供らは菖蒲で飾った紙の兜をつけ、石合戦などの遊びをしていたそうです。元禄時代になって紙や木でつくった菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。

  
室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」を立てましたが、江戸時代になって町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいました。
コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられています。

急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったそうです。その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願します。人々の生きるための切実な思いによるものが、端午の節句が生まれた理由なのでしょう。

陰陽會では五月五日に〇歳から十三歳までの男女のお子様を対象とし『端午祭』を執行致します。お子様の一年間の病気や災厄を祓い、健やかな成長と利発さや美麗が授かるようにご祈願申し上げます。

平成20年4月号

三月の陰陽會の祭典および行事

三月二十日   春季皇靈祭 執行

四月の陰陽會の祭典及び行事予定

四月三日     神武天皇遥拝式 執行

四月二十九日    昭和祭 執行

春・秋の彼岸

彼岸といえば先祖祭、墓参り。仏教色をともなって説明されることも多いのですが、インドや中国にはない日本だけの行事です。大和言葉で、春・夏・秋・冬のうち、冬(ふゆ)という言葉が最も新しく、古今集の時代でも「冬の歌」とされるものは僅かで、しかも雪と梅が同時に詠まれたりするような歌が多くみられます。これは冬という季節の分類の観念が新しいものだからだろうと池田弥三郎氏が述べています。
秋の稔りを祝う新嘗祭は旧暦十一月で四季の冬に当り、新穀を神に捧げてのち、神から戴く来年のいのちのようなものが「みたまのふゆ」といわれ恩頼と書いてそう読ませます。「みたまのふゆ」は秋から春を迎えるために必要なものだったのですが、これが冬の語源だという説もあります。それはともかく、夏(なつ)という言葉も次に新しく、はるか古代には、春と秋、という二つが交互にやってくるという観念があります。そして二つの替わり目の行事が、盆と正月です。そして春と秋のそれぞれの中の中心となる行事があります。現代の神社の祭礼で春祭りと秋祭りを重視するのはそれを伝えているのでしょう。
あるいは春分・秋分のころに、自然を尊び、祖霊に感謝することが行なわれ、それが仏教の知識と習合して彼岸の行事になりました。自然を尊ぶとは、太陽を中心とした自然の恵みに対してであり、日を拝むことから、日拝みヒヲガミヒガンという語源説まであります(日に願をかけるというのもある)。ともかく、太陽が真東から昇り真西に沈むころに、日に向かって拝む行事がさまざまあったということです。昭和二三年の「国民の祝日に関する法律」では、
 春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」、
 秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日」
と規定されています。しかし現在では「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」であるという意識はかなり薄れてしまって、先祖祭一色になっているようなところがありますけれども六十年近く前のころは、そうではなかったのでしょう。五、六十年単位でも人々の意識はこの程度には変ってしまうものなのです。この法律では、春分の日と秋分の日の趣旨が好対照に説かれていますが、当時はそのような傾向があったのかもしれません。しかし自然を讃え、祖先を敬うことは、春秋共通のことであったらしいのです。

平成20年3月号

二月の陰陽會の祭典および行事

二月三日     追儺式・節分祭 執行

二月十一日    紀元祭 斎行

二月十七日    祈年祭 斎行

2月11日、紀元祭を斎行致しました

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紀元祭とは神武天皇建国の大業を仰ぎ、日本民族の自覚を深め、愛国の意義を新たにし、皇室の隆昌と国家の安泰を祈念する祭祀です。 

2月17日、祈年祭を斎行致しました

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祈年祭とは「としごいのまつり」とも言われ、その年の五穀豊穣、産業の発展、国家・国民の繁栄を祈る祭祀です。

三月の陰陽會の祭典及び行事予定

三月二十日   春季皇靈祭 執行

雛祭り(上巳の節句)

旧暦では桃の花が咲く季節になるため桃の節句となりました。

男雛と女雛を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒などの飲食を楽しむ節句祭りです。関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆です。本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛の一対を指しますが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化しています。日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか判然としていませんが、その起源はいくつか存在しています。日本での起源は、平安時代に既に貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存しています。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられています。しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来があります。これが江戸時代に女の子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり飾られるようになりました。この「雛あそび」が「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されています。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味あいが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の重要な家財のひとつに数えられていました。

 陰陽道的な観点からしても、雛人形が娘の穢れや災厄を身代わりとなって受けてくれていることは明らかです。女の子がいらっしゃるご家庭は、必ずひとりに一セットの雛人形を揃えましょう。雛人形はその女の子のためのものなので、決して人に譲ったり貸したりすることはできません。年に一度は必ず親王雛だけでも構いませんので飾りましょう。そしてお嫁入りの時には必ず嫁入り道具として持って行き、嫁ぎ先でも毎年飾って下さい。

平成20年2月号

新たな会報、桔梗だより

この度「桔梗だより」という会報を作ることに致しました。

この会報では陰陽會での毎月の祭典や行事など、

また皆様へのお知らせ、ご質問などを

気軽に様々な事を紹介していこうと考えています

会員の皆様の交流の場にしていただければ幸いです。

一月の陰陽會の祭典および行事

元旦   歳旦祭 執行

一月三日 元始祭 執行

一月七日 昭和天皇武蔵野陵遥拝式 執行

昨年大晦日の師走の大祓の祭典の後、

吉例により歳旦祭および新年の初祈祷を執行致しました。

二月の陰陽會の祭典及び行事予定

二月三日     追儺式・節分祭 執行

二月十一日    紀元祭 執行

二月十七日    祈年祭 執行

追儺式・節分祭とは

二月三日は節分の日です。「節分」は本来、季節の移り変わる時の意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。特に立春が一年の初めと考えられることから次第に、「節分」といえば春の節分を指すものとなりました。立春を新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて、追儺(ついな)の行事が行われていたわけで、その一つが「豆まき」です。追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事のことで、平安時代、陰陽師たちにより宮中において大晦日に盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになりました。文武天皇の頃に始まったといわれています。

さて、ここで何故、豆をまくのでしょうか?

陰陽五行、十干十二支という考え方が大きく関わってきます。
「鬼門」をご存知でしょうか?北東にあたる方位が鬼門とされています。では、なぜ北東の方位が鬼門なのでしょうか?
いろいろな説がありますが、昔の中国の道教の影響があると言われており、冥府の神として信仰されていた「秦山府君」が住むと言われていた山が北東にあったことから、冥府北東鬼門といわれています。鬼門の方角は十二支では、丑と寅の方角(うしとら)に当り、鬼の姿はこの牛の角をもち、トラのパンツを身に付けています。ここで、丑というのは十二月を、寅は一月を指します。ちょうど十二月から一月にかけての季節の節目に「鬼門」があるのです。鬼門は鬼の出入りする方角でこの邪気を祓うことにより、春が無事に迎えられると考えられていました。ここで陰陽五行の法則の登場です。五行とは、自然の道理を木、火、土、金、水の五元素の事を表しており、この「金」というのが、硬いとか、厄病という意味があり、鬼の象徴で鬼が金棒を持っているのもこの「金」の象徴です。この「金」の作用をなくすのが、五行でいう「火」に当ります。大豆というのは、とても硬いという事で、「金」に当ります。イコール鬼です。これを火で煎る(火が金を溶かすという火剋金の作用)と同時に、豆まきで外や内にこの大豆がばらまかれて結局、人間が食べてしまうことにより、鬼を退治することになります。また、豆をまく事により、五行の「木」を助けるという事で、「春の気を助ける」から「春を呼ぶ行事」でもあります。

当会では、陰陽道の故事に習い、追儺式を執り行うと共に、追儺符および御祈祷済み鬼打豆をお頒かち申し上げます。是非、会員の皆様も二月三日に各家々にて追儺式を執り行い、邪気を祓い福を呼び込んで下さい。

2011年3月 2日 (水)

月次祭

陰陽會の月次祭(つきなみさい)は毎月1日と15日の2回斎行致します。

大神様に世界平和、国家安泰、皇室の弥栄、崇敬者の健康と安全等を祈願する祭典です。

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