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2011年5月10日 (火)

平成21年2月号

月の陰陽會の祭典および行事

平成廿年十二月三一日 大祓式を斎行致しました

           大祓ひ式及び除夜祭

一月一日 歳旦祭を斎行致しました

     歳旦祭及び新年の初祈祷

一月七日 昭和祭を斎行致しました

一月十二日 成人祭を執行致しました。

二月の陰陽會の祭典及び行事予定

二月三日   追儺式・節分祭 執行

二月十一日  紀元祭 斎行

紀元節・紀元祭

今から二千六百六十九年前、初代の天皇陛下である神武天皇といふ御方が、日本の国を平定され、天皇の御位に即かれた日です。
 『日本書紀』によると、神武天皇のご即位の日は、「辛酉年春正月庚辰朔」とあります。この日を太陽暦に換算しなほした日が、二月十一日になります。

神武天皇は高天原の最高神たる天照大神の御子孫になられます。お名前は「かむやまといはれびこのみこと」(『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」と表記されています。神武天皇は、日向国にお生まれになりました。この日向国は、天照大神のお孫の神様が、高天原からお降りになられた場所です。お若い時は、日向国の高千穂宮におられました。しかし日向国は西方に片寄つてあるため、日本中を治めるには不都合がありました。そこで、東方へ都を移したほうが良いであらうとお考へになって日向国を出発、途中の戦で兄君を亡くすなどの艱難辛苦を乗り越え、日本を平定されました。そして大和国の橿原の宮でご即位なさいました。宝算一三七歳(一二七歳とも)で崩御され、御陵は畝傍山にあります。
 明治二十二年、神武天皇と皇后をご祭神として、橿原宮の址に、「橿原神宮」が創建されました。二月十一日は例祭にあたり、毎年勅使をお迎へして紀元祭が斎行されます。

神武天皇の建てられたわが日本国が、天皇のご子孫の一系の天子を仰いで、二千六百四十一年(注・本年は二千六百六十九年)の歴史を続けているということは、世界の歴史の不思議と申すほかはないものでありますが、実にこれが日本の真実の姿です。自然の恩恵とともに、そのきびしい試練をうけ、一つの民族として一億を超える人口が共通した一つの国語で語り合い、数千年の先祖の無数の文物を、風景明眉の国土の至る所に保存してきたことは、まことに比類のない世界史の驚異であります。そしてこの淵源は、実に神武天皇の建国にあります。
 国家に一大事といふ時、国の存亡の危機を国民が意識した時、建国の日の苦しみを回想することは、古今東西に見るところです。危機再建の日に、建国の大事業を回想するといふことは、興隆の原動力です。江戸幕府の末期、国際情勢からも日本国を強固にせねばならぬと考へた時、学者や有識人は神武天皇建国のご事蹟を思ひ出して、復古の思想をとなへたのです。そのころでは民衆までも西洋諸国のアジア侵略の実態を知り、生活や経済の困窮などから、漠然と世の中の建て直しの時代がきたと感じました。かうして時勢に不安を感じた民衆は、全国から伊勢の皇大神宮へ大挙して参拝したのです。いはゆるお蔭まゐりで、これは類のない歴史上の大事件でしたが、このお蔭まゐりと同じやうに畝傍山の神武天皇の御陵へ群衆が押しかけました。この民間信仰には熱狂的なものもあつて、その証拠の石碑石灯籠などが残つてゐます。この神武天皇信仰は維新後もつづき、橿原神宮の創建は、この民間信仰から、民間で私社を作らうとしました。私社はまづいと考へた人びとが、代はりに官幣大社橿原神宮を建てる運動をしたのです。かうして今の神宮が建つたのです。
 天保八年(一八三七年)に大坂の陽明学者の大塩平八郎は、諸民の困窮に心をいため、世直しを実行しようと、兵をあげました。この時大塩平八郎が、近畿地方にまいた檄文の中に、今困つてゐる人びとのくらしを、天照大神の時代までもどすといふのはおそれ多く、できないことだが、せめて神武天皇の大御代のごとくに今の世の人びとを安堵させたいのが自分の願ひだと書いてゐます。これは当時の国民が、すでに、世直しといふことと、神武天皇の大御代といふこととに、あひ通ず理想を感じてゐた証拠であります。大塩平八郎の世直しといふことは、江戸幕府を滅ぼして、朝廷のまつりごとをうち立てることだったのです。

(『神武天皇』保田與重郎による)

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