最近のトラックバック

最近のコメント

2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 平成22年4月号 | トップページ | 平成22年6月号 »

2011年5月10日 (火)

平成22年5月号

月の陰陽會の祭典および行事

四月三日     神武天皇遥拝式

四月廿九日    昭和祭

五月の陰陽會の祭典及び行事予定

五月五日   端午祭 執行 

祖国再興の鍵は乃木将軍愚将論の見直しにあり

NHKが日曜の夜八時からスペシャルドラマとして「坂の上の雲」を二〇〇九年から二〇一一年に亘って放送しています。このドラマは司馬遼太郎の「坂の上の雲」を基にして製作されています。

司馬遼太郎はこの「坂の上の雲」で日露戦争の旅順要塞攻撃において未曾有の戦死者を出したとして、陸軍司令官乃木希典を無能な愚将と評価し、世間に広く定着させてしまいました。

何故、今、NHKが「坂の上の雲」をドラマ化して放送しているのかを考える時、日本人弱体化の最終仕上げとして、徹底的に「忠臣・乃木大将」を愚将として位置付けることで、天皇に対する忠誠心を馬鹿らしいものとし、天皇と日本人との関係を益々希薄化することに懸命になっていると言えます。

ところで、乃木将軍は実際にはどのような人物だったのでしょうか?

何故陸軍の旅順対策はかくも遅れてしまったのか。実のところは、乃木軍司令官は旅順攻略から奉天会戦に至るまで、「大砲と弾がなければ戦はできない」ということを大本営や海軍に訴え続けていました。ところが海軍は、旅順港は自分達の縄張りだとして陸軍の関与を断っていたという見方があります。そのため陸軍は旅順に対する調査をしていませんでした。そもそも海軍の考えは、「旅順港を閉鎖して、艦隊を封じ込めばそれで済む。」という甘いものでした。しかし、蓋を開けてみれば旅順要塞は難攻不落の近代要塞。海軍は三回にわたる旅順港封鎖作戦を実行しましたが、いずれも失敗。万策尽き果ててはじめて、陸軍の出番となりました。乃木大将は旅順が我が国の勝利の明暗を分ける要塞であるのにもかかわらず、その構造を知る由もなく、一体攻略するまでにどのくらいの兵力を要するのかなど分からぬまま赴くことになりました。二〇三高地攻撃においても、大本営や海軍の要請になかなか応じることができなかったのは、大砲および弾の不足ということが理由に挙げられます。

ところが、司馬史観では、二〇三高地を奪取すれば簡単に旅順を攻略できるのに、乃木大将はそのことに気付かずぐずぐずしていたために多くの兵士を失ってしまった、と単純に切り捨ててしまいます。ちなみに乃木大将自身、この二〇三高地攻撃中に二人の息子を戦死させました。

有名な話ですが、旅順陥落後の水師営会見の際、乃木大将は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍へ食料や酒を届け、両軍の兵士達は互いを労わり、健闘を讃えあったといいます。乃木大将は日記に「昼ヲ共ニ食シ」たと書いています。このとき海外の報道員が写真撮影を申し出たのですが、乃木大将は「後世までロシアの将軍の恥を残すようなことは日本の武士道が許さない」と拒否しましたが、「友人として同列に並んだところならよい」と答え、たくさんの写真を要求した報道員に対し、一枚だけ撮影を許しました。しかも普通ではありえないのですが、乃木大将はステッセル将軍を立派な将軍と写るように配慮し、ステッセル以下ロシアの将校は軍装に勲章を付け、帯剣しています。ふたりは心から握手を交わしました。ステッセル将軍が、乃木大将が二人の息子を失ったことに同情すると、「息子達はサムライとして名誉の戦死に喜んでいるはずです」と答え、ステッセルは日本の将兵の勇敢さに驚いたといいます。会見の終わりにステッセル将軍から、乃木大将に愛馬の白馬が贈られました。

このことは世界にビッグニュースとして伝えられ、日本の武士道精神が世界に広く知れわたりました。

凱旋の日、明治天皇に対し「大勢の陛下の赤子を失った罪を死で償いたい」と涙を流しながら伝えましたが、天皇は「朕が生きているうちは死んではならん」と告げました。そして天皇は息子を失った乃木に、たくさんの子らを委ねて学習院院長に任命したのでした。率先垂範する教師としての乃木大将の熱血ぶりも大変なものだったそうです。生徒ひとりひとりを大切にし、より多く生徒と接するために寮に住みつき、剣道、水泳、遠足と常に生徒と共に行動しました。また、そうした中、乃木大将は戦死した兵士達の遺族を慰問して回りました。一軒一軒頭を下げてまわったそうです。

大東亜戦争時、乃木神社周辺だけ空襲に遭わず焼け残りました。それは、連合軍総司令官マッカーサーの指令によるものです。彼の父は、日露戦争時に従軍武官として乃木大将の第三軍のもとにおり、乃木大将を最高の武人として敬服し、息子にそれを伝えていたのでした。GHQ占領中も、常にMPが神社の周りを警備に当たっていたといいます。乃木神社には今もマッカーサーの植えたハナミズキが大きく育っています。

乃木大将が学習院長として最後のお別れの講義を小学生にされた時に、乃木大将が「日本はどこにある?」と生徒に質問されました。三、四人が「東洋の東側」「緯度何度」といった地理的な返事をしたのを聞かれて、乃木大将は「それぞれに間違いはない」、

そして、自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだよ」と仰って、静かに壇上を降りて学習院を去って行かれたと言うことです。

後日、小学生の意見が新聞に紹介されました。

「西郷隆盛も武士、大久保利通も武士である。しかし乃木大将はその上の武士である」

明治の小学生が斯くの如き精神性の高さを持っていたとは驚きです。このような日本人を育てた乃木大将を愚将とするのは如何なものでしょうか。

将に、今こそこの乃木精神を蘇らせ、祖国再生を果たすべき時が来たのではないでしょうか。

また乃木精神復活なくして、祖国再生もありえません。

余談ですが…。現在四国の讃岐うどんは全国的に有名になり、知らない人はいないと思いますが、この讃岐うどんは実は「乃木うどん」が基になっているのです。讃岐のうどんを広めた乃木の功績は戦後の反戦、反軍の風潮の中、讃岐うどんと乃木将軍との関係は伏せられてきました。

乃木希典が、1898~1901年に初代師団長を務めた陸軍第11師団(香川県善通寺市)で考案、部隊食に導入したとされる「乃木うどん」が3日、陸上自衛隊善通寺駐屯地(同)の給食で約1世紀ぶりに再現された。

 力が出るようにと、讃岐うどんに餅と鶏肉をのせている。兵士が休日に盛んに近くのうどん屋に出入りしていることを知った乃木が、栄養価を高めて部隊食にするよう発案したことを、元自衛官の前川清・武蔵野学院大教授が突き止め、論文を発表。その中で帰郷した兵士の一部が店を開き、讃岐うどんを広めたとの説も展開した。その論文などをもとに同駐屯地が献立に採用した。

 この日は隊員約1000人が食べ、「おいしい」と評判は上々。同駐屯地の松井俊彦司令は「駐屯地の名物献立として定着させ、機会があれば広めたい」と普及に意欲満々だった。

2009124日 読売新聞より転載)

« 平成22年4月号 | トップページ | 平成22年6月号 »

桔梗だより」カテゴリの記事