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2012年9月30日 (日)

桔梗だより 平成23年12月号

十一月の陰陽會の祭典および行事

十一月三日  明治祭を斎行致しました。

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十一月廿三日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭を斎行致しました。

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十二月の陰陽會の祭典及び行事予定

十二月廿三日  天皇御誕辰奉祝祭・天長祭

十二月廿四日大正天皇多摩陵遥拝式

十二月卅一日師走大祓式・除夜祭

晴明公が活躍した平安時代とは?

    華やかな貴族文化の裏で闇が支配する世界

平安以前は遣隋使、遣唐使を支那大陸に遣わすなどして支那や朝鮮半島の外来文化を盛んに取り入れましたが、この時代には貴族の権力闘争が絶え間なく、政局が乱れ、疫病が蔓延し、人心が荒廃した時代でもありました。その後、菅原道真の建議により寛平六年(八九四年)に遣唐使が停止されたことによって、日本独自の国風(くにぶり)文化が栄えていきました。

今に残る貴族の雅な文化は平安時代に花開いたものですが、この華やかな貴族文化の裏には魑魅魍魎、怨霊が跋扈する闇の時代でもありました。

この時代には天皇や貴族が徹夜の歌会を度々開いたと云う記録が数多く残っていますが、遊ぶことが目的ではなく体内にいると信じられていた三尸虫(さんしちゅう)が寝ている間に抜け出して寿命が減らされないようにする為でした。

また現代には民間の伝統行事として伝わっている人生儀礼や五節句などの季節の行事は、もともと陰陽道による宮中祭祀として行われていたものであり、これらの穢れを祓う神事はすべて悪霊を遠ざける為のものでした。そしてこれらの祭祀の大半は、貴族らが怨霊の祟りから身を守る為に行われたものだったのです。

祭祀に留まらず【方忌(かたい)み】(凶の方向に対してひたすらじっと待つ)、【方違(かたたが)え】(吉の方向に回り道する)、【物忌(ものい)み】(凶の日は家に閉じこもる)など日常生活に至るまで陰陽道による様々な穢れや怨霊を避ける儀式を頻繁に行っていたのは、貴族らが怨霊の祟りを如何に恐れていたかを物語っています。

一般的には奈良時代に数多くの寺院が建立された理由は鎮護国家と言う事になっていますが、つまりは貴族の権力闘争によって人心の荒廃著しく、外来文化と共に様々な疫病がもたらされたことで、政局が混迷したことによって仏教の力を借りて国を治めようとしたということです。

奈良時代末の貴族の権力闘争は凄まじいものがありました。光仁天皇の時代に藤原式家の藤原百川(ももかわ)は皇太子である他戸(やりど)親王ではなく自らに有利な山部親王を天皇にする為に謀略によって他戸親王と母親の井上内親王に無実の罪を着せて監禁した後殺してしまいます。井上内親王は百川を恨んで怨霊となったと伝えられています。『水鏡』には「息を引き取るや、たちまち蛇身と化した」と記されている事から、恨みが如何に強かったかが分かります。祟りは井上内親王の死後、翌年から始まります。夜になると空から都に瓦や石、土砂が降ると云う事が二十日続き、更に翌年の九月にはこの謀略に協力した藤原良継(よしつぐ)が死に、冬には大日照りが起きて宇治川の水が枯れかかり、十二月には首謀者の藤原百川と光仁天皇、山部親王が揃って鎧をまとった百人の兵士に追われる夢を見て背筋を震わせます。そしてその二年後には百川の祈祷役の僧が、百川が井上内親王を殺した罪で首をはねられるという夢を見た日、百川は急死してしまいます。『帝王編年記』には「頓死」と記録されている事から壮絶な死に様だったようです。

しかしながら百川の功績は、称徳天皇が僧侶弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位につけようとした際、和気清麻呂に働きかけてその企てを防ぎ、称徳天皇が崩御すると道鏡を追放して光仁天皇を擁立し、更には桓武天皇の立太子に尽力し、平安遷都への道を拓き、その後の藤原氏の長い繁栄の礎を築いたことです。また平安時代には藤原一族が繁栄したことで、世界に誇る日本の国風(くにぶり)文化が大いに栄えた事も挙げられます。

ところで藤原百川の謀略の末、山部親王は皇太子になり、後に桓武天皇となりますが、長岡京への遷都をめぐって対立していた弟の早良(さわらの)親王を陥れて流罪にしたことで、早良親王が死した後怨霊となり、長岡京は早良親王の呪いで破壊されてしまいます。あまりの祟りのすごさに新たな都を造営したのが平安京です。平安京は陰陽道を駆使して造営された都であり、あらゆる霊的守護を施した都です。

このように奈良末期から平安にかけて貴族の権力闘争で敗れた人々の怨霊が渦巻いていたのが平安時代でもありました。

桓武天皇の死後も怨霊たちは平安京と権勢を強めていく藤原一族を呪い続ける事になります。けれども「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の歌にあるように平安時代は藤原一族がもっとも繁栄した時代でした。藤原一族がこれほどの怨霊と祟りに苛まされていたにも拘らず、道長がこの世の栄華を極める事が出来た裏には安倍晴明公の存在を抜きにしては語れません。

道長の日記『御堂関白記』によると、花山天皇の退位後に晴明公は一条天皇や道長の信頼を集めるようになったことが伺えます。その後、清明公は藤原家に降りかかる怨霊や祟りを陰陽道の方術によって鎮め、その負のエネルギーを藤原一族の繁栄へと転換し、事細かに政(まつりごと)に対して進言を行い、避禍招福の為の祓いを行って、陰に陽に道長をサポートしています。

道長が晴明公によって出世していった実績を見て、他の殿上人たちもそれぞれが陰陽師らに自らの出世や避禍招福を頼む様になったのです。

(つづく)

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