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2012年9月30日 (日)

桔梗だより 平成24年7月号

6月の陰陽會の祭典および行事

6月24日 疫病封じ祈願祭を執行しました。

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6月30日 名越大祓式を斎行致しました。

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7月の陰陽會の祭典及び行事予定

7月22日   結婚感謝祭

戦国武将と暦

戦国時代には武将を補佐する役目として軍配師と云う人物がいました。軍配師とは戦術をサポートやアドバイスする所謂軍師の役目です。この軍配師になる為には占筮(せんぜい)術に長じている事、つまり日の吉凶を見たり、占いによって戦に勝つための祈祷が出来るということが必須条件でした。

この軍配師には主に山伏や法師陰陽師と云われる人物が担っていました。法師陰陽師とは密教系の僧侶でありながら陰陽道の方術や占いを施してお金を稼ぐ、所謂非公認の陰陽師です。本来陰陽師とは朝廷管轄の陰陽寮所属の官僚であり、陰陽道は門外不出とされていたからです。法師陰陽師は律令体制が崩れかけた頃には公然と活躍していました。

ところで日本に限らず支那に於いても戦乱の世には暦の吉凶や占い、祈祷によって戦術を有利に運ぶ為、軍配師の存在は欠かせないものでした。

孫子の兵法でお馴染みの孫子も算命・断易を縦横無尽に駆使していた鬼谷子に師事して弟子となっていますが、兵法の根底には占術があることが分かります。
また三国志の英雄である諸葛孔明も奇門遁甲の使い手で八門の秘法によって勝利したと言われています。

武田信玄の伝説的軍師である山本寛助、織田信長には伊束法師、豊臣秀吉には白井龍伯という軍配師、徳川家康には天海僧正という法師陰陽師がついていました。

この軍配師の最も重要な仕事は、勝敗を予報し、軍人の士気を高め、勝利へと導く、勝利請負人です。その生死を左右する戦場において、武将でも逆らえない存在が軍配師であったと言われます。
また軍配師が敵側との講和交渉にあたるなど外交折衝も重要な仕事であり、合戦で殺害した後の供養や怨霊を封じることも、軍配師の大事な仕事の一つだったようです。
このように合戦に於ける加持祈祷から「地選」といって城郭の位置を選定したり、地鎮祭を執り行ったり、勝利の勝ち鬨を挙げたり、首実検をしたりと武将の手足となって動く存在が軍配師でした。

これらの軍配師にとって合戦の日取りなど様々な日の吉凶を選び定める事は重要な事であり、その為に暦をどう読み解くか、また軍配師による祈祷が功を奏すかどうかは軍配師の腕にかかっていたと言えるでしょう。

単に兵力や戦闘能力によって勝敗が決まったのではなく、裏には互いに軍配師が占術をもって戦術を如何に有利に導くかと云う占術合戦が行われていたのです。

しかしながら裏では軍配師が互いに有利になるような裏取引をしていたという事もあったようです。知らぬは大将ばかり也。

ところで軍配師の存在はともかくも、人の上に立つような仕事を為すには有能な参謀を抱えているか、またその参謀を活かすことが出来るかどうかが非常に重要な鍵となります。いつの世に於いても、如何に本人に大将としての器があっても、有能且つ忠良な参謀なくしては大仕事をこなす事は中々難しいでしょう。

禍をもたらす天津甕星(あまつみかぼし)

天津甕星とは彗星つまり流れ星の事です。現代に於いては、流れ星が落ちる前に願い事を三回唱えれば叶う、というようなロマンティックな星としてのイメージが定着してしまいましたが、昔は天の異変の一つで凶事の予兆として捉えられていました。『日本書紀』には天孫降臨の際、「天に悪神あり。天津甕星という。またの名をアマノカガセヲという。先ずこの神を誅す。」とあるように、流れ星を凶事の予兆とみなし非常に恐れていました。彗星はほうき星や客星とも呼ばれていました。彗星が現れると陰陽寮の天文博士は天文書に基づいて吉凶を占い、凶事の場合はその対処方法などの内容を密封した上で天皇に奏聞する天文密奏を行いました。

彗星を凶兆とする見方は西洋にもあり、インフルエンザの語源はイタリア語の「influence」から来ています。これは邪悪な彗星の「影響」と云う意味から命名されたそうです。

今年は金環日蝕、月蝕、金星の日面通過など、天の異変が次々と起こりました。その都度会員の皆様には自祓ひのご案内を致しましたが、これらの天の異変はすべて穢れであり、楽しく観察するような天文ショーではありません。これらの天体異変の後、五月末からは近畿地方を中心に風疹が猛威を振るい流行の兆しを見せており、六月十九日には八年ぶりに大型台風が本土上陸など次々と凶事が起こっています。

天体異変が起きている当日には出来るだけ普段通りの生活をし、新しい事、変わった事を行わない、また極力外出を控え、天の妖光に当たらない、尚且つ異変が過ぎ去った後には自祓ひ、清祓、大祓等で穢れを祓うなど、積極的に身に降りかかった穢れを祓う事で、穢れによる禍や枉津日の荒びを遠ざけることが出来るのです。(続く)

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

・・・・・・・・・・・

平成24年7月号 号外

Tomohito

平成二十四年六月六日、寛仁親王殿下がご薨去あそばされました。

衷心よりお悔やみ申し上げ、殿下の御霊の安からむことを謹んでお祈り申し上げます。

寛仁親王殿下は「髭の殿下」の愛称で多くの国民に親しまれ、また積極的な福祉事業への取り組みをされて大変尊敬されておられました。またご皇族方の中で積極的に保守的なご発言を為され、日本並びに皇室の行く末を非常に案じておられたことと拝察申し上げます。
平成二十一年、寛仁親王殿下は自由社の歴史教科書の巻頭に特別寄稿されましたが、その内容は現在の日本国民が神話の時代から連綿と続く皇室と共に存在してきたことの深い意義を教えて下さっています。
今一度、寛仁親王殿下の国民へのメッセージをしっかりと受け止めて、今ある日本の危機を脱していく為の指針としたいと思います。

天皇と日本 【特別寄稿】(一部抜粋)  

寛仁親王殿下 

「日本人の歴史教科書」 自由社
国体を守る『民族の知恵』
 天皇という御存在は、神道的にみれば祭祀王としての存在とも言えるでしょうし、家系的に見れば我が国で最も古い家系の主とも言えますし、社会的には二六六九年の日本の伝統文化の担い手とも言えるでしょう。
 そして、外国の王皇族の様に、パフォーマンスを常に意識していないといけない存在(国民もそれを期待するし、国民自身も自らパフォーマンスをするのが常識です)と違って、一二二代孝明天皇迄は御簾の向こうにおわしまして、明治帝から初めて、国民の中に姿を現されたという特殊な形態で来ました。
然し乍(しかながら)、当時の人々も山間僻地にいたような民草でも、「京に都と言うものがあって、天子様という偉い方がおわすそうだ!」といった程度の常識は伝承で語り継がれていたはずです。これが、我が国の一君万民の基本的な姿だったのではないでしょうか?
 外国は、古くより、合理主義を尊びます。然し乍我が国では、神道という、宗教でない神の道を尊び、神秘的な現象を極く普通に受け入れて、今迄来ました。自然界の全てを神たりうるものとして尊敬し、自然と共に生きる、共生するという事を古代から真面目に守って来ました。
 諸外国は、自然というか地球を、自分達が征服するという事を主眼にして来た様な気がします。科学の力で、産業革命を起こし、人間が、全てを支配すると いった雰囲気を私は感じます。前述の様に合理主義に裏打ちされ、オール・オア・ナッシング(白黒つけたがる)外国人魂と違い、我が国では、全世界から輸入された思想であれ、物質であれ、それらを見事に、時間を掛けて自然にありのままに日本化し、自家薬籠中の物にしてしまう特殊性があります。
 外国人と比較して、強いて言えば、グレイの部分を沢山持っているのだと思います。外国から見れば、神秘的に見えるかも知れませんし、我々日本人でさえも、生活の中に多くの答えの出ないものを大切にしてきた歴史があり、それが我が国の世界に冠たる特徴であると思います。
 天皇陛下が、主宰される新嘗祭・或いはお代替わりの時に催される、大嘗祭等の宮中儀式も、陛下と皇太子殿下との間の一子相伝で、我々は拝見したことも同席した事もなく、幄舎(あくしゃ)の中で鎮まって儀式が終わるのをお待ちしているのです。同じ様に、三種の神器についても、我々は見る事もなく、語り継が れて来た事を信じているだけです。
 外国人にこの事を話したとしても到底理解してくれないと思いますが、我々日本人は、自然界の中で様々な形で、あらゆる物を神々しいものとして受け入れ大事にして来ていると同時に、繰り返しますが、歴代の天子様の事も、知る知らない、見たことが有る無いに拘わらず、日本国の象徴として、民族の象徴として、 崇敬し敬愛して来たという、全く他国に見られない行いを神話の時代から連綿と続けてきました。
 国民一人一人の、国体を守る、「民族の知恵」を感じざるを得ません。

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