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2012年9月30日 (日)

桔梗だより 平成24年9月号

8月の陰陽會の祭典および行事

815日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭 斎行

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9月の陰陽會の祭典及び行事予定

99日  重陽の節句・重陽祭

917日  敬老祭

922日  例大祭・晴明桔梗まつり

日本の年中行事と神まつり

七月七日・七夕祭・星祭 

七夕は奈良時代に宮中行事として行なわれるようになりました。
六九一年の持統天皇の頃から既に行われていて、支那から伝わった牽牛星と織女星の星祭り伝説と日本の古来からの「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説、女子が手芸や裁縫、書道等の上達を願う行事(乞巧奠:きこうでん)などがいくつか複合されて七夕の日として定着しました。

古来の神祭の日としての天皇相撲御覧と文人による七夕の賦詩(ふし)の宴が行われていましたが、平安時代になって、相撲の儀は変更されて星の祭りとして盛んになりました。寺子屋が普及した江戸時代になり、笹竹に五色の短冊に詩歌を書いたりして、手習いの上達を願いましたが、この習慣が現代の七夕祭りにまで続いています。
またお盆と七夕の関係は一続きの行事でしたが、お盆は先祖祭の意味が強くなり、七夕の方は星祭的な意味合いを濃くしていきました。

日本には古くからご先祖をお迎えする七月のお盆の前に穢れを祓い清める行事があり、名越の大祓もその一つですが、七夕に行われる水浴びを「ねむり流し」「ねぶた流し」などと呼んでいました。青森のねぶた祭りも、元々は穢れを水に流す禊の行事であり、七夕の笹飾りも川や海に流す習慣がありました。

御霊祭り(お盆)

ご先祖様の御霊を家にお迎えする行事は、日本古来の行事であり、本来は神道の行事で「迎え火」や「送り火」を行います。お盆というと仏教行事の観がありますが、仏教渡来以前から続く日本古来の先祖祭りの行事で、幽世(かくりよ)から帰ってくるご先祖様を丁重にお祀り申しあげ日々の加護と子孫の繁栄をお祈りする大切な祭儀です。新暦では七月十三日にお墓参りをして、夕方に我が家の門前で迎え火を焚き、ご先祖さまをお招きします。七月十五日に正式には氏神さま(産土さま)の神職を迎えて盆祭を執り行います。七月十六日の夕方に家の門前で送り火を焚きお見送りします。

一般的に関東地方では、新暦七月のお盆が多いようですが、他の地方では、一ヶ月遅れの八月が多いようです。

特に帰幽されて一年以内にお盆を迎える場合は特別に新御霊祭(あらみたままつり・新盆祭)を行います。故人の新しい御霊はまだ、霊として安寧しておらず、一年祭を終え初めて、ようやく安定した霊になるからです。御霊祭り(お盆)という行事は日本人にとってご先祖様の御霊をお祭りする意味を持つ、とても重要な行事です。

九月九日・重陽

重陽は、陰陽道でいう陽数の極である九(奇数は陽数とされ、9は最も陽の性質を帯びている数)が重なることで、重九ともいい、九月九日は大変にお目出度い日とされました。 主に邪気を祓い長寿を願う祓い祭儀が行われ、菊の花が邪気を祓い長寿に効くとされていたため、菊の花を浮かべた菊酒を飲んだりしました。天武天皇(陰陽寮を創設)により菊花の宴が催されています。平安時代には宮中の儀礼となり「観菊の宴(重陽の宴)」が催され、「菊綿(きくわた)」という風習も行われるようになりました。
「菊綿」は、「菊のきせ綿」ともいい、八日に菊の花の上に真綿をかぶせておき、翌九日の朝、菊の露で濡れたその綿で肌を撫でれば、若さを保つことができると言われていました。紫式部日記にはその様子が描かれていて、官位によって綿の色も異なったようです。

ちなみに菊は日本に自生しておらず、不老長寿の薬として薬用に栽培されていたものが支那から伝説とともに伝来しました。

江戸時代には五節句の中で、最も公的な性質を供えた行事になりました。また、民間では粟御飯を食べる風習もあります。

十五夜

旧暦の八月十五日、新暦では九月の中旬(今年は九月三十日)です。
お月見、名月、中秋の名月、芋名月とも呼ばれます。

お月見の習慣は平安時代の貴族の間に取り入れられ、次第に武士や町民に広まりました。昔は、月の満ち欠けにより月日を知り、農事を行いましたので、十五夜の満月の夜は祭儀の行われる大切な節目でした。満月に見立てたお団子と魔除けの呪力があるすすきをお供えします。すすきや秋の七草、団子十五個と里芋など秋の農作物や果物を窓辺などの月が見える場所にお供えします。

日本では昔から、同じ場所で十五夜と十三夜の両方を観賞する風習が一般的です。どちらか一方だけ観賞するのは「片見月」といって忌まれています。旧暦の八月十五日を「中秋の名月」と呼びますので、必ずしも満月の日とは限りませんし満月でないことの方が多いのですが、二〇一一年から二〇一三年までは「十五夜・中秋の名月」に満月を迎えます。

十三夜

旧暦の九月十三日、新暦では十月の中・下旬(今年は十月二十七日)。
十五夜を中秋の名月と呼ぶのに対し、十三夜は「後の月(のちのつき)」「豆名月」「栗名月」とも言います。

旧暦の毎月十三日の夜を「十三夜」と言っていましたが、九月十三日の夜は、十五夜についで美しい月とされ、宮中では、古くから宴を催すなど月を鑑賞する風習がありました。十五夜は支那から伝わったものですが、十三夜は日本固有の風習です。

十一月十五日・七五三

数え年で、男の子は五歳(地方によっては三歳も)、女の子は三歳と七歳に、晴れ着を着て神社(氏神様)に参拝して無事成長したことを感謝、奉告し、これからの将来の幸福と長寿をご祈願する祭儀です。元々は宮中や公家の祭儀でしたが、江戸時代には一般的に広く行われるようになりました。
三歳の髪置(かみお)き、五歳の袴着(はかまぎ)の祝い、七歳の帯解(おびと)きの祝いの儀式が由来です。

十一月十五日にお祝いすることになったのは、この日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)にあたり、婚礼以外は何事の祝い事にも吉とされていたからです。また、旧暦の十一月は秋の実りを神に感謝する月(新嘗祭)でしたので、その月の満月にあたる十五日に、氏神様に収穫の感謝をすると共に子供の成長の感謝・祈願をしたものと思われます。七・五・三はいずれも陰陽道では陽数で、縁起の良い数字です。

(参考サイト)日本の行事・暦http://koyomigyouji.com/index.html 

平安大事典―歴史と文化http://heianjiten.fc2web.com/index.htm

(次号に続く)

・・・・・・・・・・・・・・

桔梗だより9月号 号外

2012810日、突如韓国大統領である李明博は島根県の竹島に不法上陸しました。韓国大統領が我が国が領有権を主張している竹島に上陸したのは初めての事です。

この訪問計画は89に明らかになり日本政府はソウル大使館を通じて韓国政府に対して中止を申し入れていましたが退けられ、李明博大統領は十日午前鬱陵島(うつりょうとう)に到着し、そこで昼食をとった後に竹島に向かい、午後二時前には竹島に到着し上陸。訪問には文化体育観光相、環境相らも同行。約一時間半滞在した後竹島を後にしました。

竹島は昭和二十七年韓国初代大統領李承晩(りしょうばん)が国際法を無視して勝手に引いた軍事境界線、李承晩ラインによって韓国側が領有権を主張し、独島(どくと)と命名したものです。その後は実行支配を強め、民主党政権になって以来次々と宿泊施設を建設し、民間人らも頻繁に訪れるようにするなど実行支配を益々強めていっています。

自民党政権の時には、あくまでも韓国側の不法占拠であると云う主張から、大統領が上陸するというような事態には至っていませんでした。

しかしながら民主党政権誕生以来、201011月、20127月、ロシア大統領メドベージェフによる二度の北方領土視察、20109月、尖閣沖での海保と支那の漁船衝突事件、この度の李明博大統領の竹島上陸、2012815日、香港活動家による魚釣島上陸など、次々と領有権を主張しているあるいは我が国固有の領土に対して露西亜、支那、韓国があからさまな領土に対する主権侵害を堂々とやり続けています。

この様な中で李明博が竹島上陸に続いて行った蛮行が天皇陛下に対する謝罪発言です。

以下は2012814日、李明博大統領が忠清北道(チュンチョンプクト)の大学で行われた教員らとの会合の席上で行った、天皇陛下訪韓など対日関係に関する発言の正確な「直訳」だと、インターネット上の「2ちゃんねる」を中心にネット上に流布されている内容文です。

(韓国関係者が流石に日本に気遣い、違う訳になる前の直訳)

『日王は韓国民に心から土下座したいのなら来い、重罪人にふさわしく手足を縛って頭を踏んで地面に擦り付けて謝らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ、そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さないぞ』

※日王とは韓国人が「天皇陛下」を侮蔑した語り方。皇帝は世界に支那にしか存在しないと云う事大主義に基づく考え方。しかし日本のマスコミは、李明博が作為的に「日王」と言ったのを、日本語訳の段階で「天皇」と意識的に言い換えています。

これが一国の大統領としての発言だとすれば、日本としては絶対に看過できない内容であることは明らかです。

流石の野田首相もこの発言に対して一応の謝罪と発言の撤回を求め、抗議の為親書を送りましたが、親書の指摘に誤りがあるとして韓国側が受け取りを拒否し、韓国大使館員がアポなしで外務省を訪れ、門前払いを食らうと書留で送り返すと云う、最早国としての体を為していない行為を繰り返しています。韓国は慰安婦問題に始まり、竹島の領有問題に関して、日本側が甘い対応を繰り返している間にどんどんと増長し、挙句の果てに天皇陛下に対して謝罪要求をするなど、最早絶対に越えてはならない一線を越えました。

そもそも天皇陛下の外交儀礼における相対的地位は図の通りです。2005年現在の世界では国家元首等のうち皇帝級の職位を称するのは日本国天皇のみとなっていて、実際の国際慣行においては日本国天皇皇帝(エンペラー、カイザー)として扱われています。外交儀礼の厳然たる存在を示す実例としては、国際的な場において同席する際にイギリスエリザベス女王天皇に上座を譲ること、天皇・皇后訪米の際アメリカ大統領が空港へ白ネクタイ(ホワイト・タイ)で出迎えること(この歓迎方法は米国大統領にとって最敬礼のものとされており、現在その対象となるのは日本国天皇ローマ教皇英国国王のみ)などが挙げられます。

このような世界の外交儀礼に於いても最高の地位を持っておられる天皇陛下に対して、侮蔑的な表現としての「日王」を用いる事や、まして異常な表現を用いた謝罪要求を突き付けるなど、国際的に見てもあり得ない話であり、我が国としては国交断絶を宣言してもおかしくないほどの侮辱であります。

更に天皇陛下に対して無礼極まりない態度をとると言う事は、陛下に対して尊敬の念を以て礼儀を尽してこられたローマ教皇、英国女王陛下、各国王陛下、女王陛下、アメリカ大統領、各国首脳に対して無礼を働いたのと同じことになります。日本政府並びに日本国民は、韓国大統領李明博と同調して天皇陛下を愚弄する韓国民を、断じて許してはなりません。

戦後、GHQが我が国を占領統治するにあたって、朝鮮人を利用し日本を支配させようとしました。日韓併合時に日本に来たまま終戦を迎えた朝鮮人が朝鮮進駐軍と称する犯罪集団を組織し、多くの日本国民を殺害するなど、終戦後のどさくさであらゆる犯罪を犯していました。韓国が捏造された慰安婦問題で我が国に賠償と云う名のたかりをし続けるのであれば、我が国は事実である朝鮮進駐軍による日本人殺害、土地収奪の賠償を要求すべきでしょう。日本政府がいつまでも「経済優先」「国家主権は二の次」などと云った商売人のような態度をとり続けていれば、国民が日常生活に埋没している間に、我が国の主権は露西亜・支那・朝鮮・亜米利加に分割され、日本と云う国は世界から消えてなくなることは明らかです。

我が国は天皇陛下と国民が呼応し合う国民性であり、天皇陛下が侮辱されたと言う事は日本国民が侮辱されたと同じ事なのです。我々日本国民は、この度の韓国大統領並びに韓国民の蛮行を徹底的に糾弾し、李明博の発言に対する謝罪と撤回を求め、更には元々やる意味も無い韓国に対する通貨スワップ協定も永久に廃止し、反日政策をとり続ける限り、未来永劫経済援助などすべきではありません。

我が国がいつまでも経済優先を掲げ、更には政治家の利権によって反日国家に経済援助を続けることは、日本、韓国両国にとって決して良い関係を築くことは出来ないことを、政治家、官僚、経済界、国民が今こそそれぞれに正しい理解をすべき時が来ていると考えます。

※李承晩ライン(ウィキペディアより抜粋)

大韓民国(韓国)大統領、李承晩が1952(昭和27)年118日、海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に日本海・東シナ海に設定した軍事境界線の事。

李承晩ラインは韓国が独自に海洋資源の保護を謳い、韓国付近の公海での漁業を、韓国籍以外の漁船で行うことを武力で強制して締め出して禁止したものである。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍、ほか中国国籍)は韓国側による臨検拿捕・接収の対象となり、乗組員が銃撃され、殺害される事件が起こっている(第一大邦丸事件など)。

これに日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが、日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(一九六五年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。共産主義者だと判ると抑留期間も数年間におよんだ。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮472人を放免し、在留特別許可を与えた。一方、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者、重大犯罪者、政治犯等の強制送還は拒絶し、日本国内に自由に解放するよう要求した。

※捏造された従軍慰安婦問題

日韓合同調査の結果、はっきりしているのは慰安婦(売春婦)は存在したが、日本軍が強制連行した証拠が何一つ存在しないと云うことです。唯一発見された文書は昭和13年に陸軍省通達「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という命令書のみであり、その趣旨は民間の悪徳業者による誘拐まがいの行為、即ち「強制連行」を軍が警察と協カして止めさせようとしたものでした。一方、韓国側としての証拠は被害者側の「証言」だけです。
つまり朝鮮半島に慰安婦は日本統治の遥か以前から存在しており、朝鮮人ブローカーが斡旋を取り仕切り、当時としては桁はずれの報酬が支払われていた事です。当時、公娼制度は合法であり、軍から許可を得た業者が募集・運営を取り仕切っていました。経済的理由から親に売り飛ばされたり、やむなく募集に応じたものも多くいましたが、報酬額からみて商業的な契約に基づく労働であったと言わざるを得ず、過酷な性奴隷を強いられたと主張するには無理があります。事実、軍での仕事は手っ取り早く稼ぐ手段しとして日本人の慰安婦も数多く存在していました。

時代は変わりベトナム戦争時、韓国軍は各地で無差別住民殺害事件を起こし、売春婦でない一般人を『強姦』して2万人以上の混血児(ライタイハン)をベトナム女性との間に残したことに対して 補償はおろか謝罪すらしていません。 

朝鮮進駐軍  (Weblio辞書にて削除予定の為、一部転載。) 

①概要 

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945昭和20以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人韓国人)、もしくは現在日本帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。戦後日本ポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物不法占拠鉄道飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民朝鮮進駐軍犠牲となり殺害されたとされている。

朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について 

【服装・武器及び組織について概要】

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍パイロット軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人皇民)に対するあてつけとも言われた。 組織ではいくつかの本部を設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返すことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日朝鮮人連盟。更にこれが在日大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在民団朝鮮総連となる。

【時代背景】

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があった。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をたどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感犯罪者といったイメージ日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。

朝鮮人による犯罪】

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎大阪神戸都心等当時朝鮮人比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察GHQにより鎮圧された。 

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。 

略奪・窃盗密売土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地建物の収奪も相次いだ。 

194512月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。19484月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。 

第八軍司令官ロバートアイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。

【主な事件一覧 

朝鮮進駐軍及びその後の在日朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

阿仁村事件(19451022)、 生田警察署襲撃事件(19451224194619 

直江津リンチ殺人事件(19451229 富坂警察署襲撃事件(194613 

長崎警察署襲撃事件(1946513 富山駅前派出所襲撃事件(194685 

坂町事件(1946922 新潟日報社襲撃事件(194692629日) 

首相官邸デモ事件(19461220 尾花沢派出所襲撃事件(19471020 

阪神教育事件(194842325日) 評定河原事件(1948101112日) 

宇部事件(1948129 益田事件(1949125 枝川事件(19494613日) 

高田ドブロク事件(19494711日) 本郷村事件(19496211日) 

下関事件(1949820 台東会館事件(1950320 

連島町事件(1950815 第二神戸事件(1950112027日) 

日市事件(1951123 王子事件(195137 神奈川事件(1951613 

下里村役場事件(19511022 福岡事件(19511121 

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951121 半田一宮事件(195112311日) 

軍需品製造工場襲撃事件(19511216 日野事件(19511218 

木造地区警察署襲撃事件(195222123日) 姫路事件(1952228 

八坂神社事件(195231 宇治事件(1952313 

多奈川町事件(195232630日) 田川事件(1952419 

岡山事件(1952424530 血のメーデー事件(195251 

上郡事件(195258 

大村収容所脱走企図事件(195251225日、11912日) 

広島地裁事件(1952513 高田派出所襲撃事件(1952526 

奈良警察官宅襲撃事件(1952531 万来町事件(195253165 

島津三条工場事件(1952610 醒ヶ井村事件(1952613 

葺合・長田事件(1952624 吹田枚方事件(195262425日) 

新宿駅事件(1952625 大須事件(195277 舞鶴事件(195278 

五所川原税務署襲撃事件(1952111926日)

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