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2012年9月

2012年9月30日 (日)

桔梗だより 平成24年9月号

8月の陰陽會の祭典および行事

815日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭 斎行

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9月の陰陽會の祭典及び行事予定

99日  重陽の節句・重陽祭

917日  敬老祭

922日  例大祭・晴明桔梗まつり

日本の年中行事と神まつり

七月七日・七夕祭・星祭 

七夕は奈良時代に宮中行事として行なわれるようになりました。
六九一年の持統天皇の頃から既に行われていて、支那から伝わった牽牛星と織女星の星祭り伝説と日本の古来からの「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説、女子が手芸や裁縫、書道等の上達を願う行事(乞巧奠:きこうでん)などがいくつか複合されて七夕の日として定着しました。

古来の神祭の日としての天皇相撲御覧と文人による七夕の賦詩(ふし)の宴が行われていましたが、平安時代になって、相撲の儀は変更されて星の祭りとして盛んになりました。寺子屋が普及した江戸時代になり、笹竹に五色の短冊に詩歌を書いたりして、手習いの上達を願いましたが、この習慣が現代の七夕祭りにまで続いています。
またお盆と七夕の関係は一続きの行事でしたが、お盆は先祖祭の意味が強くなり、七夕の方は星祭的な意味合いを濃くしていきました。

日本には古くからご先祖をお迎えする七月のお盆の前に穢れを祓い清める行事があり、名越の大祓もその一つですが、七夕に行われる水浴びを「ねむり流し」「ねぶた流し」などと呼んでいました。青森のねぶた祭りも、元々は穢れを水に流す禊の行事であり、七夕の笹飾りも川や海に流す習慣がありました。

御霊祭り(お盆)

ご先祖様の御霊を家にお迎えする行事は、日本古来の行事であり、本来は神道の行事で「迎え火」や「送り火」を行います。お盆というと仏教行事の観がありますが、仏教渡来以前から続く日本古来の先祖祭りの行事で、幽世(かくりよ)から帰ってくるご先祖様を丁重にお祀り申しあげ日々の加護と子孫の繁栄をお祈りする大切な祭儀です。新暦では七月十三日にお墓参りをして、夕方に我が家の門前で迎え火を焚き、ご先祖さまをお招きします。七月十五日に正式には氏神さま(産土さま)の神職を迎えて盆祭を執り行います。七月十六日の夕方に家の門前で送り火を焚きお見送りします。

一般的に関東地方では、新暦七月のお盆が多いようですが、他の地方では、一ヶ月遅れの八月が多いようです。

特に帰幽されて一年以内にお盆を迎える場合は特別に新御霊祭(あらみたままつり・新盆祭)を行います。故人の新しい御霊はまだ、霊として安寧しておらず、一年祭を終え初めて、ようやく安定した霊になるからです。御霊祭り(お盆)という行事は日本人にとってご先祖様の御霊をお祭りする意味を持つ、とても重要な行事です。

九月九日・重陽

重陽は、陰陽道でいう陽数の極である九(奇数は陽数とされ、9は最も陽の性質を帯びている数)が重なることで、重九ともいい、九月九日は大変にお目出度い日とされました。 主に邪気を祓い長寿を願う祓い祭儀が行われ、菊の花が邪気を祓い長寿に効くとされていたため、菊の花を浮かべた菊酒を飲んだりしました。天武天皇(陰陽寮を創設)により菊花の宴が催されています。平安時代には宮中の儀礼となり「観菊の宴(重陽の宴)」が催され、「菊綿(きくわた)」という風習も行われるようになりました。
「菊綿」は、「菊のきせ綿」ともいい、八日に菊の花の上に真綿をかぶせておき、翌九日の朝、菊の露で濡れたその綿で肌を撫でれば、若さを保つことができると言われていました。紫式部日記にはその様子が描かれていて、官位によって綿の色も異なったようです。

ちなみに菊は日本に自生しておらず、不老長寿の薬として薬用に栽培されていたものが支那から伝説とともに伝来しました。

江戸時代には五節句の中で、最も公的な性質を供えた行事になりました。また、民間では粟御飯を食べる風習もあります。

十五夜

旧暦の八月十五日、新暦では九月の中旬(今年は九月三十日)です。
お月見、名月、中秋の名月、芋名月とも呼ばれます。

お月見の習慣は平安時代の貴族の間に取り入れられ、次第に武士や町民に広まりました。昔は、月の満ち欠けにより月日を知り、農事を行いましたので、十五夜の満月の夜は祭儀の行われる大切な節目でした。満月に見立てたお団子と魔除けの呪力があるすすきをお供えします。すすきや秋の七草、団子十五個と里芋など秋の農作物や果物を窓辺などの月が見える場所にお供えします。

日本では昔から、同じ場所で十五夜と十三夜の両方を観賞する風習が一般的です。どちらか一方だけ観賞するのは「片見月」といって忌まれています。旧暦の八月十五日を「中秋の名月」と呼びますので、必ずしも満月の日とは限りませんし満月でないことの方が多いのですが、二〇一一年から二〇一三年までは「十五夜・中秋の名月」に満月を迎えます。

十三夜

旧暦の九月十三日、新暦では十月の中・下旬(今年は十月二十七日)。
十五夜を中秋の名月と呼ぶのに対し、十三夜は「後の月(のちのつき)」「豆名月」「栗名月」とも言います。

旧暦の毎月十三日の夜を「十三夜」と言っていましたが、九月十三日の夜は、十五夜についで美しい月とされ、宮中では、古くから宴を催すなど月を鑑賞する風習がありました。十五夜は支那から伝わったものですが、十三夜は日本固有の風習です。

十一月十五日・七五三

数え年で、男の子は五歳(地方によっては三歳も)、女の子は三歳と七歳に、晴れ着を着て神社(氏神様)に参拝して無事成長したことを感謝、奉告し、これからの将来の幸福と長寿をご祈願する祭儀です。元々は宮中や公家の祭儀でしたが、江戸時代には一般的に広く行われるようになりました。
三歳の髪置(かみお)き、五歳の袴着(はかまぎ)の祝い、七歳の帯解(おびと)きの祝いの儀式が由来です。

十一月十五日にお祝いすることになったのは、この日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)にあたり、婚礼以外は何事の祝い事にも吉とされていたからです。また、旧暦の十一月は秋の実りを神に感謝する月(新嘗祭)でしたので、その月の満月にあたる十五日に、氏神様に収穫の感謝をすると共に子供の成長の感謝・祈願をしたものと思われます。七・五・三はいずれも陰陽道では陽数で、縁起の良い数字です。

(参考サイト)日本の行事・暦http://koyomigyouji.com/index.html 

平安大事典―歴史と文化http://heianjiten.fc2web.com/index.htm

(次号に続く)

・・・・・・・・・・・・・・

桔梗だより9月号 号外

2012810日、突如韓国大統領である李明博は島根県の竹島に不法上陸しました。韓国大統領が我が国が領有権を主張している竹島に上陸したのは初めての事です。

この訪問計画は89に明らかになり日本政府はソウル大使館を通じて韓国政府に対して中止を申し入れていましたが退けられ、李明博大統領は十日午前鬱陵島(うつりょうとう)に到着し、そこで昼食をとった後に竹島に向かい、午後二時前には竹島に到着し上陸。訪問には文化体育観光相、環境相らも同行。約一時間半滞在した後竹島を後にしました。

竹島は昭和二十七年韓国初代大統領李承晩(りしょうばん)が国際法を無視して勝手に引いた軍事境界線、李承晩ラインによって韓国側が領有権を主張し、独島(どくと)と命名したものです。その後は実行支配を強め、民主党政権になって以来次々と宿泊施設を建設し、民間人らも頻繁に訪れるようにするなど実行支配を益々強めていっています。

自民党政権の時には、あくまでも韓国側の不法占拠であると云う主張から、大統領が上陸するというような事態には至っていませんでした。

しかしながら民主党政権誕生以来、201011月、20127月、ロシア大統領メドベージェフによる二度の北方領土視察、20109月、尖閣沖での海保と支那の漁船衝突事件、この度の李明博大統領の竹島上陸、2012815日、香港活動家による魚釣島上陸など、次々と領有権を主張しているあるいは我が国固有の領土に対して露西亜、支那、韓国があからさまな領土に対する主権侵害を堂々とやり続けています。

この様な中で李明博が竹島上陸に続いて行った蛮行が天皇陛下に対する謝罪発言です。

以下は2012814日、李明博大統領が忠清北道(チュンチョンプクト)の大学で行われた教員らとの会合の席上で行った、天皇陛下訪韓など対日関係に関する発言の正確な「直訳」だと、インターネット上の「2ちゃんねる」を中心にネット上に流布されている内容文です。

(韓国関係者が流石に日本に気遣い、違う訳になる前の直訳)

『日王は韓国民に心から土下座したいのなら来い、重罪人にふさわしく手足を縛って頭を踏んで地面に擦り付けて謝らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ、そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さないぞ』

※日王とは韓国人が「天皇陛下」を侮蔑した語り方。皇帝は世界に支那にしか存在しないと云う事大主義に基づく考え方。しかし日本のマスコミは、李明博が作為的に「日王」と言ったのを、日本語訳の段階で「天皇」と意識的に言い換えています。

これが一国の大統領としての発言だとすれば、日本としては絶対に看過できない内容であることは明らかです。

流石の野田首相もこの発言に対して一応の謝罪と発言の撤回を求め、抗議の為親書を送りましたが、親書の指摘に誤りがあるとして韓国側が受け取りを拒否し、韓国大使館員がアポなしで外務省を訪れ、門前払いを食らうと書留で送り返すと云う、最早国としての体を為していない行為を繰り返しています。韓国は慰安婦問題に始まり、竹島の領有問題に関して、日本側が甘い対応を繰り返している間にどんどんと増長し、挙句の果てに天皇陛下に対して謝罪要求をするなど、最早絶対に越えてはならない一線を越えました。

そもそも天皇陛下の外交儀礼における相対的地位は図の通りです。2005年現在の世界では国家元首等のうち皇帝級の職位を称するのは日本国天皇のみとなっていて、実際の国際慣行においては日本国天皇皇帝(エンペラー、カイザー)として扱われています。外交儀礼の厳然たる存在を示す実例としては、国際的な場において同席する際にイギリスエリザベス女王天皇に上座を譲ること、天皇・皇后訪米の際アメリカ大統領が空港へ白ネクタイ(ホワイト・タイ)で出迎えること(この歓迎方法は米国大統領にとって最敬礼のものとされており、現在その対象となるのは日本国天皇ローマ教皇英国国王のみ)などが挙げられます。

このような世界の外交儀礼に於いても最高の地位を持っておられる天皇陛下に対して、侮蔑的な表現としての「日王」を用いる事や、まして異常な表現を用いた謝罪要求を突き付けるなど、国際的に見てもあり得ない話であり、我が国としては国交断絶を宣言してもおかしくないほどの侮辱であります。

更に天皇陛下に対して無礼極まりない態度をとると言う事は、陛下に対して尊敬の念を以て礼儀を尽してこられたローマ教皇、英国女王陛下、各国王陛下、女王陛下、アメリカ大統領、各国首脳に対して無礼を働いたのと同じことになります。日本政府並びに日本国民は、韓国大統領李明博と同調して天皇陛下を愚弄する韓国民を、断じて許してはなりません。

戦後、GHQが我が国を占領統治するにあたって、朝鮮人を利用し日本を支配させようとしました。日韓併合時に日本に来たまま終戦を迎えた朝鮮人が朝鮮進駐軍と称する犯罪集団を組織し、多くの日本国民を殺害するなど、終戦後のどさくさであらゆる犯罪を犯していました。韓国が捏造された慰安婦問題で我が国に賠償と云う名のたかりをし続けるのであれば、我が国は事実である朝鮮進駐軍による日本人殺害、土地収奪の賠償を要求すべきでしょう。日本政府がいつまでも「経済優先」「国家主権は二の次」などと云った商売人のような態度をとり続けていれば、国民が日常生活に埋没している間に、我が国の主権は露西亜・支那・朝鮮・亜米利加に分割され、日本と云う国は世界から消えてなくなることは明らかです。

我が国は天皇陛下と国民が呼応し合う国民性であり、天皇陛下が侮辱されたと言う事は日本国民が侮辱されたと同じ事なのです。我々日本国民は、この度の韓国大統領並びに韓国民の蛮行を徹底的に糾弾し、李明博の発言に対する謝罪と撤回を求め、更には元々やる意味も無い韓国に対する通貨スワップ協定も永久に廃止し、反日政策をとり続ける限り、未来永劫経済援助などすべきではありません。

我が国がいつまでも経済優先を掲げ、更には政治家の利権によって反日国家に経済援助を続けることは、日本、韓国両国にとって決して良い関係を築くことは出来ないことを、政治家、官僚、経済界、国民が今こそそれぞれに正しい理解をすべき時が来ていると考えます。

※李承晩ライン(ウィキペディアより抜粋)

大韓民国(韓国)大統領、李承晩が1952(昭和27)年118日、海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に日本海・東シナ海に設定した軍事境界線の事。

李承晩ラインは韓国が独自に海洋資源の保護を謳い、韓国付近の公海での漁業を、韓国籍以外の漁船で行うことを武力で強制して締め出して禁止したものである。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍、ほか中国国籍)は韓国側による臨検拿捕・接収の対象となり、乗組員が銃撃され、殺害される事件が起こっている(第一大邦丸事件など)。

これに日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが、日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(一九六五年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。共産主義者だと判ると抑留期間も数年間におよんだ。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮472人を放免し、在留特別許可を与えた。一方、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者、重大犯罪者、政治犯等の強制送還は拒絶し、日本国内に自由に解放するよう要求した。

※捏造された従軍慰安婦問題

日韓合同調査の結果、はっきりしているのは慰安婦(売春婦)は存在したが、日本軍が強制連行した証拠が何一つ存在しないと云うことです。唯一発見された文書は昭和13年に陸軍省通達「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という命令書のみであり、その趣旨は民間の悪徳業者による誘拐まがいの行為、即ち「強制連行」を軍が警察と協カして止めさせようとしたものでした。一方、韓国側としての証拠は被害者側の「証言」だけです。
つまり朝鮮半島に慰安婦は日本統治の遥か以前から存在しており、朝鮮人ブローカーが斡旋を取り仕切り、当時としては桁はずれの報酬が支払われていた事です。当時、公娼制度は合法であり、軍から許可を得た業者が募集・運営を取り仕切っていました。経済的理由から親に売り飛ばされたり、やむなく募集に応じたものも多くいましたが、報酬額からみて商業的な契約に基づく労働であったと言わざるを得ず、過酷な性奴隷を強いられたと主張するには無理があります。事実、軍での仕事は手っ取り早く稼ぐ手段しとして日本人の慰安婦も数多く存在していました。

時代は変わりベトナム戦争時、韓国軍は各地で無差別住民殺害事件を起こし、売春婦でない一般人を『強姦』して2万人以上の混血児(ライタイハン)をベトナム女性との間に残したことに対して 補償はおろか謝罪すらしていません。 

朝鮮進駐軍  (Weblio辞書にて削除予定の為、一部転載。) 

①概要 

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945昭和20以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人韓国人)、もしくは現在日本帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。戦後日本ポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物不法占拠鉄道飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民朝鮮進駐軍犠牲となり殺害されたとされている。

朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について 

【服装・武器及び組織について概要】

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍パイロット軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人皇民)に対するあてつけとも言われた。 組織ではいくつかの本部を設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返すことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日朝鮮人連盟。更にこれが在日大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在民団朝鮮総連となる。

【時代背景】

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があった。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をたどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感犯罪者といったイメージ日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。

朝鮮人による犯罪】

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎大阪神戸都心等当時朝鮮人比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察GHQにより鎮圧された。 

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。 

略奪・窃盗密売土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地建物の収奪も相次いだ。 

194512月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。19484月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。 

第八軍司令官ロバートアイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。

【主な事件一覧 

朝鮮進駐軍及びその後の在日朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

阿仁村事件(19451022)、 生田警察署襲撃事件(19451224194619 

直江津リンチ殺人事件(19451229 富坂警察署襲撃事件(194613 

長崎警察署襲撃事件(1946513 富山駅前派出所襲撃事件(194685 

坂町事件(1946922 新潟日報社襲撃事件(194692629日) 

首相官邸デモ事件(19461220 尾花沢派出所襲撃事件(19471020 

阪神教育事件(194842325日) 評定河原事件(1948101112日) 

宇部事件(1948129 益田事件(1949125 枝川事件(19494613日) 

高田ドブロク事件(19494711日) 本郷村事件(19496211日) 

下関事件(1949820 台東会館事件(1950320 

連島町事件(1950815 第二神戸事件(1950112027日) 

日市事件(1951123 王子事件(195137 神奈川事件(1951613 

下里村役場事件(19511022 福岡事件(19511121 

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951121 半田一宮事件(195112311日) 

軍需品製造工場襲撃事件(19511216 日野事件(19511218 

木造地区警察署襲撃事件(195222123日) 姫路事件(1952228 

八坂神社事件(195231 宇治事件(1952313 

多奈川町事件(195232630日) 田川事件(1952419 

岡山事件(1952424530 血のメーデー事件(195251 

上郡事件(195258 

大村収容所脱走企図事件(195251225日、11912日) 

広島地裁事件(1952513 高田派出所襲撃事件(1952526 

奈良警察官宅襲撃事件(1952531 万来町事件(195253165 

島津三条工場事件(1952610 醒ヶ井村事件(1952613 

葺合・長田事件(1952624 吹田枚方事件(195262425日) 

新宿駅事件(1952625 大須事件(195277 舞鶴事件(195278 

五所川原税務署襲撃事件(1952111926日)

桔梗だより 平成24年8月号

7月の陰陽會の祭典および行事

7月22日 結婚感謝祭を斎行

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8月の陰陽會の祭典及び行事予定

8月15日  戦没者慰霊と世界平和祈願祭

日本の年中行事と神まつり

毎年同じ季節や同じ暦日に繰り返し行われる儀礼を年中行事と言います。これらの年中行事は全て何らかの神様をお迎えしたり、穢れを祓ったりする大切な機会だと言う事です。お正月には歳神様や祖霊をお迎えしてお祭りし、お盆にはご先祖様をお迎えして家族や親戚が集います。

年中行事の日には平素とは異なるご馳走を作って頂きます。餅、赤飯、団子、おはぎ、牡丹餅など、行事によってどのようなご馳走を用意するのかが決まっている地域も数多くあります。神まつりにはお供えが欠かせませんが、年中行事の日のご馳走も先ずお迎えした神様やご先祖様にお供えし、その後で同じ物を家族一同で頂きます。このように、宮中や神社などで行われる年中行事は勿論の事、一般家庭で行われる年中行事も非常に大切な神事であることが分かります。これらの年中行事は節句・節供とも言われています。

節供と節句

現在では節句と書くことが多いようですが、とは竹の節のように節目を表わし、それぞれの節目の日に相応しいお供え物をすることから、節供とした方が本来の意味と云えるのではないでしょうか。元々、お供え物の事をかつては節供と言いました。

お供え物は単に神様にお供えすると言う事だけでなく、神様が召し上がった物を後で下して皆で分け合って食べると云う、直会(なおらい)に重要な意味があります。神と人とが共に食べ合う事によって、同じ食物の持つ力が神人共に入り、神と人、人々同士が連帯できると考えられているからです。

節供には正月七日(人日・じんじつ)、三月三日(上巳・じょうし)、五月五日(端午・たんご)、七月七日(七夕・しちせき)、九月九日(重陽・ちょうよう)のいわゆる五節供があります。

五節供とは

一年間の重要な五つの節句

公式にこの五日を祝日にしたのは江戸幕府です。

陰陽道では奇数を陽数として奇数の重なる日をおめでたい日として祝います。

一月七日・人日

正月7日、五節句の最初の人日の節句は、今日では七草粥を食べる日として親しまれていますが、この習慣が始まったのは奈良時代です。平安時代になると、前日の正月六日に春の野に出て若菜を摘む行事が行われるようになりました。七草粥の行事は813年に嵯峨天皇に若菜の御膳を奉ったのが始まりとされ、宮中の行事としていた。この日が五節句の一つとして定められたのは江戸時代で、幕府の公式行事として将軍以下が七草粥を食べて祝ったとされています。また、人日の節句の名は、正月1日から正月6日までは獣や家畜を占い、正月7日に人を占うことからきたという説がある。また、この日の天候でその年の吉凶を占う風習もあり、晴れならば幸があり、曇りならば災いがあるとされた。

三月三日・上巳

三月三日の上巳の節句は、古代支那で旧暦三月の最初の巳の日に水辺に出て厄除けの祓いを行ったことに始まります。陰陽道ではこの日は陰の極にあたり、忌むべき日とされていました。

日本には平安時代に取り入れられ、宮中で曲水の宴を張り、祓いを行うようになり、やがて曲水の宴は廃れましたが、 貴族の間で「上巳の祓」として定着し、形代(祓などに用いた人形)に穢れを移して川や海に流し不浄を祓い去りました。これは各地に流し雛の風習として残っています。この日を桃の節句というのは、この季節に咲く桃の枝を門に差すと邪気を祓うという思想に基づき、桃の香気が鬼を追い払うと考えられていたからです。日本に於いては昔から六月三十日の名越の大祓、十二月三十一日の年越の大祓という祭儀がありますが、上巳の祓いもこれと同様で、人形代(ひとかたしろ)に身体の穢れを移し、大祓詞(おおはらへことば)を奏上して、罪穢れを祓い清める為の神事でした。現在では女子の節供の日とされていますが、本来は老若男女すべてが対象でした。

五月五日・端午

五月五日の端午の節句は、五月最初の午の日が陰陽道で陽の極まる日であるところから、この日に災難を除け、邪気を祓う為の祭儀が行われたことが起源です。邪気を祓う呪力を持つとされる菖蒲や蓬を軒に吊るしたり、菖蒲湯に入ったりして邪気を祓います。無病息災を祈るための菖蒲が尚武に通じるところから、江戸時代の中期頃から男子のお祭りとして定着していきました。男子のいる家では鯉のぼりを立て、甲冑・刀・武者人形などを飾って、子供の成長を祝う行事となり、ちまきや柏餅を食べてお祝いするようになりました。

(次号に続く)

桔梗だより 平成24年7月号

6月の陰陽會の祭典および行事

6月24日 疫病封じ祈願祭を執行しました。

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6月30日 名越大祓式を斎行致しました。

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7月の陰陽會の祭典及び行事予定

7月22日   結婚感謝祭

戦国武将と暦

戦国時代には武将を補佐する役目として軍配師と云う人物がいました。軍配師とは戦術をサポートやアドバイスする所謂軍師の役目です。この軍配師になる為には占筮(せんぜい)術に長じている事、つまり日の吉凶を見たり、占いによって戦に勝つための祈祷が出来るということが必須条件でした。

この軍配師には主に山伏や法師陰陽師と云われる人物が担っていました。法師陰陽師とは密教系の僧侶でありながら陰陽道の方術や占いを施してお金を稼ぐ、所謂非公認の陰陽師です。本来陰陽師とは朝廷管轄の陰陽寮所属の官僚であり、陰陽道は門外不出とされていたからです。法師陰陽師は律令体制が崩れかけた頃には公然と活躍していました。

ところで日本に限らず支那に於いても戦乱の世には暦の吉凶や占い、祈祷によって戦術を有利に運ぶ為、軍配師の存在は欠かせないものでした。

孫子の兵法でお馴染みの孫子も算命・断易を縦横無尽に駆使していた鬼谷子に師事して弟子となっていますが、兵法の根底には占術があることが分かります。
また三国志の英雄である諸葛孔明も奇門遁甲の使い手で八門の秘法によって勝利したと言われています。

武田信玄の伝説的軍師である山本寛助、織田信長には伊束法師、豊臣秀吉には白井龍伯という軍配師、徳川家康には天海僧正という法師陰陽師がついていました。

この軍配師の最も重要な仕事は、勝敗を予報し、軍人の士気を高め、勝利へと導く、勝利請負人です。その生死を左右する戦場において、武将でも逆らえない存在が軍配師であったと言われます。
また軍配師が敵側との講和交渉にあたるなど外交折衝も重要な仕事であり、合戦で殺害した後の供養や怨霊を封じることも、軍配師の大事な仕事の一つだったようです。
このように合戦に於ける加持祈祷から「地選」といって城郭の位置を選定したり、地鎮祭を執り行ったり、勝利の勝ち鬨を挙げたり、首実検をしたりと武将の手足となって動く存在が軍配師でした。

これらの軍配師にとって合戦の日取りなど様々な日の吉凶を選び定める事は重要な事であり、その為に暦をどう読み解くか、また軍配師による祈祷が功を奏すかどうかは軍配師の腕にかかっていたと言えるでしょう。

単に兵力や戦闘能力によって勝敗が決まったのではなく、裏には互いに軍配師が占術をもって戦術を如何に有利に導くかと云う占術合戦が行われていたのです。

しかしながら裏では軍配師が互いに有利になるような裏取引をしていたという事もあったようです。知らぬは大将ばかり也。

ところで軍配師の存在はともかくも、人の上に立つような仕事を為すには有能な参謀を抱えているか、またその参謀を活かすことが出来るかどうかが非常に重要な鍵となります。いつの世に於いても、如何に本人に大将としての器があっても、有能且つ忠良な参謀なくしては大仕事をこなす事は中々難しいでしょう。

禍をもたらす天津甕星(あまつみかぼし)

天津甕星とは彗星つまり流れ星の事です。現代に於いては、流れ星が落ちる前に願い事を三回唱えれば叶う、というようなロマンティックな星としてのイメージが定着してしまいましたが、昔は天の異変の一つで凶事の予兆として捉えられていました。『日本書紀』には天孫降臨の際、「天に悪神あり。天津甕星という。またの名をアマノカガセヲという。先ずこの神を誅す。」とあるように、流れ星を凶事の予兆とみなし非常に恐れていました。彗星はほうき星や客星とも呼ばれていました。彗星が現れると陰陽寮の天文博士は天文書に基づいて吉凶を占い、凶事の場合はその対処方法などの内容を密封した上で天皇に奏聞する天文密奏を行いました。

彗星を凶兆とする見方は西洋にもあり、インフルエンザの語源はイタリア語の「influence」から来ています。これは邪悪な彗星の「影響」と云う意味から命名されたそうです。

今年は金環日蝕、月蝕、金星の日面通過など、天の異変が次々と起こりました。その都度会員の皆様には自祓ひのご案内を致しましたが、これらの天の異変はすべて穢れであり、楽しく観察するような天文ショーではありません。これらの天体異変の後、五月末からは近畿地方を中心に風疹が猛威を振るい流行の兆しを見せており、六月十九日には八年ぶりに大型台風が本土上陸など次々と凶事が起こっています。

天体異変が起きている当日には出来るだけ普段通りの生活をし、新しい事、変わった事を行わない、また極力外出を控え、天の妖光に当たらない、尚且つ異変が過ぎ去った後には自祓ひ、清祓、大祓等で穢れを祓うなど、積極的に身に降りかかった穢れを祓う事で、穢れによる禍や枉津日の荒びを遠ざけることが出来るのです。(続く)

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

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平成24年7月号 号外

Tomohito

平成二十四年六月六日、寛仁親王殿下がご薨去あそばされました。

衷心よりお悔やみ申し上げ、殿下の御霊の安からむことを謹んでお祈り申し上げます。

寛仁親王殿下は「髭の殿下」の愛称で多くの国民に親しまれ、また積極的な福祉事業への取り組みをされて大変尊敬されておられました。またご皇族方の中で積極的に保守的なご発言を為され、日本並びに皇室の行く末を非常に案じておられたことと拝察申し上げます。
平成二十一年、寛仁親王殿下は自由社の歴史教科書の巻頭に特別寄稿されましたが、その内容は現在の日本国民が神話の時代から連綿と続く皇室と共に存在してきたことの深い意義を教えて下さっています。
今一度、寛仁親王殿下の国民へのメッセージをしっかりと受け止めて、今ある日本の危機を脱していく為の指針としたいと思います。

天皇と日本 【特別寄稿】(一部抜粋)  

寛仁親王殿下 

「日本人の歴史教科書」 自由社
国体を守る『民族の知恵』
 天皇という御存在は、神道的にみれば祭祀王としての存在とも言えるでしょうし、家系的に見れば我が国で最も古い家系の主とも言えますし、社会的には二六六九年の日本の伝統文化の担い手とも言えるでしょう。
 そして、外国の王皇族の様に、パフォーマンスを常に意識していないといけない存在(国民もそれを期待するし、国民自身も自らパフォーマンスをするのが常識です)と違って、一二二代孝明天皇迄は御簾の向こうにおわしまして、明治帝から初めて、国民の中に姿を現されたという特殊な形態で来ました。
然し乍(しかながら)、当時の人々も山間僻地にいたような民草でも、「京に都と言うものがあって、天子様という偉い方がおわすそうだ!」といった程度の常識は伝承で語り継がれていたはずです。これが、我が国の一君万民の基本的な姿だったのではないでしょうか?
 外国は、古くより、合理主義を尊びます。然し乍我が国では、神道という、宗教でない神の道を尊び、神秘的な現象を極く普通に受け入れて、今迄来ました。自然界の全てを神たりうるものとして尊敬し、自然と共に生きる、共生するという事を古代から真面目に守って来ました。
 諸外国は、自然というか地球を、自分達が征服するという事を主眼にして来た様な気がします。科学の力で、産業革命を起こし、人間が、全てを支配すると いった雰囲気を私は感じます。前述の様に合理主義に裏打ちされ、オール・オア・ナッシング(白黒つけたがる)外国人魂と違い、我が国では、全世界から輸入された思想であれ、物質であれ、それらを見事に、時間を掛けて自然にありのままに日本化し、自家薬籠中の物にしてしまう特殊性があります。
 外国人と比較して、強いて言えば、グレイの部分を沢山持っているのだと思います。外国から見れば、神秘的に見えるかも知れませんし、我々日本人でさえも、生活の中に多くの答えの出ないものを大切にしてきた歴史があり、それが我が国の世界に冠たる特徴であると思います。
 天皇陛下が、主宰される新嘗祭・或いはお代替わりの時に催される、大嘗祭等の宮中儀式も、陛下と皇太子殿下との間の一子相伝で、我々は拝見したことも同席した事もなく、幄舎(あくしゃ)の中で鎮まって儀式が終わるのをお待ちしているのです。同じ様に、三種の神器についても、我々は見る事もなく、語り継が れて来た事を信じているだけです。
 外国人にこの事を話したとしても到底理解してくれないと思いますが、我々日本人は、自然界の中で様々な形で、あらゆる物を神々しいものとして受け入れ大事にして来ていると同時に、繰り返しますが、歴代の天子様の事も、知る知らない、見たことが有る無いに拘わらず、日本国の象徴として、民族の象徴として、 崇敬し敬愛して来たという、全く他国に見られない行いを神話の時代から連綿と続けてきました。
 国民一人一人の、国体を守る、「民族の知恵」を感じざるを得ません。

桔梗だより 平成24年6月号

5月の陰陽會の祭典および行事

5月5日 端午祭 斎行

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6月の陰陽會の祭典及び行事予定

6月24日   疫病封じ祈願祭

6月30日   名越大祓式

暦注を読み解く

【季節を知る為の二十四節気】

二十四節気は支那で考案され「前漢書律暦志(ぜんかんじょりつれきし)」の中で初めて登場します。農耕作業を正確に行う為に季節感を正しく把握する目的で作られたもので、今でも暦にとって重要不可欠な存在になっています。

二十四節気とは、節分を基準に一年を二十四等分して約十五日ごとに分けた季節のことで、一ヶ月の前半を「節」、後半を「中」と言います。その区分点となる日に季節を表すのにふさわしい春・夏・秋・冬などの名称を付けたものです。

立春…旧暦ではこの日を基準に日を数え始める。

雨水…雪が解け雨水になると云う意味。

啓蟄…冬眠していた虫が穴から出てくると云う意味。

春分…この日を境に昼が長く夜が短くなる。

清明…芽が出た草木がはっきり判断できると云う意味。

穀雨…穀物を育成する雨が降ると云う意味。

立夏…この日より夏になったと云う意味。

小満…万物に生気充満し果実実り草木繁るとうい意味。

芒種…麦など殻のあるものを取り入れると云う意味。

夏至…一年で最も日照時間が長い日。

小暑…暑さが次第に増す頃と云う意味。

大暑…一年中で一番暑い頃、猛暑の意味。

立秋…この日から秋に入ると云う意味。

処暑…暑さがようやく止む頃と云う意味。

白露…草木に朝夕露がやどる頃と云う意味。

秋分…この日を境に昼が短く夜が長くなる。

寒露…野草にも露が宿ると云う意味。

霜降…初霜が降りる頃と云う意味。

立冬…この日から冬に入ると云う意味。

小雪…雪がちらつく頃と云う意味。

大雪…雪が多く降る頃と云う意味。

冬至…一年で一番昼が短く夜が長い日。

小寒…寒さが厳しくなると云う意味。

大寒…一年中で一番寒い頃と云う意味。

二十四節気の他に、季節を知らせるために暦に記載されているものが雑節です。雑節とは、五節句・二十四節気以外の、季節の移り変わりの目安となる日の総称です。農民は支那由来の二十四節気では十分に季節の変化を読み取れないため、その補助をする為に考えられた日本独自の暦です。

節分(二月三日)八十八夜 (五月一日頃)入梅 (六月十一日頃)半夏生〔はんげしょう〕(七月二日頃)二百十日〔ひゃくにちとうか〕(九月一日頃) 土用(一月十七日・四月十七日・七月二十日・十月二十日頃)彼岸 (三月二十日・九月二十三日頃)などです。

二十四節気も雑節も現代に無縁のように思われているかもしれませんが、会話の端々や手紙の挨拶文などでは良く使われ、意外にも現代人にも馴染みのある言葉です。日本人の生活は移ろいゆく四季と密接に関わっており、次々と変化していく季節を二十四節気や雑節、五節句などの季節の行事などを通して敏感に感じ取っていると言えるでしょう。今一度これらの言葉とその意味を理解してみると、季節感をより一層感じる事が出来るのではないでしょうか。

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

桔梗だより 平成24年5月号

4月の陰陽會の祭典および行事

4月3日  神武天皇遥拝式

4月29日 昭和祭 斎行

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5月の陰陽會の祭典及び行事予定

5月5日   端午祭 執行 

暦注を読み解く

【暦注の中段にある十二直】

十二直(ちょく)は旧暦に於いては中段にあり、「直」とはアタルと読めるように吉凶判断としては極めて重要視されていました。もとは月の吉凶を判断したものですが、今では日の吉凶として定着しています。昭和初期までは六曜よりも十二直の方が重要視されており、婚礼などの日取りが決められていました。

建(たつ)・除(のぞく)・満(みつ)・平(たいら)・定(さだん)・執(とる)・破(やぶる)・危(あやう)・成(なる)・納(おさん)・開(ひらく)・閉(とづ)が順繰りに日に配当されたものです。

建(たつ)物事を始めるのに大吉、ただし土木工事は凶。

除(のぞく)天帝が悪を除去する日。掃除、湯浴み、療養は吉。但し婚礼、旅行、水に関する工事は凶。

満(みつ)天帝が宝庫に財を収める日。五穀の収納、蔵建て、移転、旅行、婚礼は吉。ただし土木工事、医療を始めるには凶。

平(たいら)天帝が物を公平に分与する日。万事に吉であるが種蒔き、水に関する工事は除く。

定(さだん)天帝が物事の位置を指定する日。万事に吉、但し訴訟や旅行は凶。

執(とる)天帝が紛争の仲裁、裁決をする日。万事に吉。但し旅行、蔵開きは凶。

破(やぶる)合戦や訴訟、狩猟は吉。但し概ね他は凶。

危(あやぶ)何事も危険が伴う日。開店、開業は厳禁。但し祝い事や祭礼には吉。

成(なる)万物成就の吉日。願掛けが叶う。但し争い事は除く。

納(おさん)天帝が宝物を宝庫に納める日。万事に吉、特に買い入れは大吉。但し出す、又は出ていくことには凶。

開(ひらく)天帝が諸方に道を開く日。物事を始めるには大吉。

閉(とづ)天地が閉塞する日。万事に凶、但し池の埋め立て、墓地の工事は吉。

【安倍晴明公が起源の吉凶日】

暦注の下段には選日以外の吉凶が記載されていました。この吉凶判断は晴明公が記したとされる『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんおんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)』が基になっていると言われています。毎日に配された十干十二支の組合わせを陰陽五行の関係から判断し、吉凶を見たものです。

大明日(だいみょうにち)全ての物事にとって吉日となる。特に建築、移転、旅行に良い。

受死日(じゅしび)暦注下段に黒丸で示され、黒日(くろび)とも言い最悪の日とされる。同じ日の他の暦注に何があっても関係なく、葬式以外は万事に忌むべき日であり、この日に病になると死に至るとされる。

復日(ふくにち)この日は吉凶が重なり、吉を行えば吉が重なり、凶事にあえば凶が重なる。但し婚礼は再婚につながり凶とされる。

十死日(じゅうしにち)受死日に次ぐ凶日。この日は葬儀も凶とされる。

血忌日(ちいみにち)何事にも血を見ることは凶とされる日。鍼灸、死刑、狩猟などは凶とされ、奉公人の雇い入れも凶。

三箇の悪日(さんかのあくにち)・・・大禍日(たいかにち)、狼藉日(ろうしゃくにち)、滅門日(めつもんにち)の三日を指す。

貧窮、飢渇(きかつ)、障碍(しょうがい)の三神と貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒を表わしています。大禍日は最も悪い日で、この日は口を慎み、家の修理や門戸建て、葬儀は凶。狼藉日は万事に凶。乱暴狼藉を働くと全てを失うと言われます。滅門日は万事に凶。これを無視すれば一家一門が滅ぶとされました。この三日は共に仏事や葬儀を行ってはならないとされる日で、これを犯せば後々どんな災いが起きるか分からないと恐れられました。この三日は生まれ年によって違ってきます。

子年の人・・・十一月の酉・午・卯の日

丑年の人・・・十二月の辰・酉・戌の日

寅年の人・・・正月の亥・子・巳の日

卯年の人・・・二月の午・卯・子の日

辰年の人・・・三月の丑・午・未の日

巳年の人・・・四月の申・酉・寅の日

午年の人・・・五月の卯・子・酉の日

未年の人・・・六月の戌・卯・辰の日

申年の人・・・七月の巳・午・亥の日

酉年の人・・・八月の子・酉・午の日

戌年の人・・・九月の未・子・丑の日

亥年の人・・・十月の寅・卯・申の日

天恩日(てんおんにち)天恩があるとされる吉日。

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

暦注を無視した現代生活に於いて、知らぬ間に禍を招いている可能性も否定出来ないのではないでしょうか。

(次号に続く)

桔梗だより 平成24年4月号

3月の陰陽會の祭典および行事

3月3日執行 桃花神事 執行

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3月20日 春季皇靈祭 斎行

4月の陰陽會の祭典及び行事予定

4月3日 神武天皇遥拝式

4月29日 昭和祭

暦注を読み解く

【吉凶を六十干支で表す選日】

暦に書かれている事は二つに分類できます。一つは日付、曜日、二十四節気(立春、春分、立夏、大暑、冬至、大寒など)、潮汐(潮の干満)、朔と望(新月と満月)、日の出、日の入りなど科学的な・天文学的な要素と、もう一つは日時や方角の吉凶や行動の禁忌などです。この部分を暦注と言い、人々の日常生活に於ける行動、様々な行事(建築、結婚、旅行など)や仕事、農耕など、あらゆる事柄をいつ為せば最もよく、あるいは又、最悪の状況になるかなどを知る手掛かりであり、人々の暮らしに多大な影響を与えています。六十干支の組合わせによって吉凶判断に用いられます。

八専(はっせん)

八専はほぼ二か月ごと、一年間に六回で計七十二日あります。この期間は「物事が順調に進まないことを覚悟すべき」です。けれどもこの期間の間に「間日(まび)」が四日あり、この間日は例外となります。

十方暮(じゅっぽうぐれ)

この期間は何事もうまくいかないので「途方に暮れる」と云う事から十方暮と呼ばれるようになったと言われています。相談事や交渉事などはまとまらず、見合い、結納、婚礼、移転、金策などは凶とされています。

三伏(さんぷく)

夏至(六月二十一日頃)以後、三回目の庚(かのえ)の日を初伏(しょふく)、四回目の庚の日を中伏(ちゅうふく)、立秋以後最初の庚の日を末伏(まっぷく)と呼びます。三日とも凶日として、種蒔き、療養、遠出、房事などは慎むべき日です。

大土・小土(おおつち・こつち)

この期間は「犯土(はんど・つちび)の節」と言われ、穴掘り、井戸掘り、堤防や墓を築く事、種蒔きなど土をさわることは一切厳禁です。「犯土」は最悪は氏を招いたり、原因不明の難病になったり、倒産、破産など思いもよらない禍をもたらします。

三隣亡(さんりんぼう)

この日に家屋の棟上げや建築を行うと三軒隣まで火事に合う凶日です。

歳下食(さいげじき)

どんな年でも六十日に一回の割合で天狗星(てんぐせい)と云う凶星の神様が人を食らいにやって来ると言われる凶日の事です。

母倉日(ぼそうにち)

天地が万物を育て慈しみ、倉のように万物を懐に収めて助けると云う意味で、人々に幸福をもたらすとされる日です。

一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)

一粒のモミが万倍にも実ると云う吉日の意味です。物事を始めるには最適な日で、特に仕事や開店、種蒔き、出資などに良いとされています。但し借金をしたり、借り物をすると後々苦労します。

天一天上(てんいつてんじょう)

この期間は地上では方位の禁忌が無くなり、どの方角へ出かけても構いません。特に最初の癸巳(きし)の日は結婚には最高の吉日です。

天赦日(てんしゃび)

最大最高の吉日です。この日ばかりは他の暦注にどんな悪日が入っていても全く関係なく、特に婚礼には大吉日です。

甲子(かっし)

六十干支の一番目の組合わせであり、この年及び日は吉日となります。この年は吉祥年とされ甲子の日には甲子祭りが行われます。

己巳(きし)

巳は蛇の事であり、蛇は弁財天の使いと言う事でこの日には弁財天を祀る様になりました。

月徳(げっとく)

家の増改築や土に関わる事には吉日です。

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

このように人々は暦注を見据えて禍を避け、日々の生活がより豊かになるように何事を為すにも凶日を避け、吉日を選んでいたのです。現代に於いては事細か暦に神経を注ぐ習慣はほとんど無くなってしまいましたが、カレンダーに何も書かれていないからと言って、このような暦注に記された吉日や凶日が消えてなくなったわけではありません。

(次号に続く)

桔梗だより 平成24年3月号

2月の陰陽會の祭典および行事

2月3日追儺式・節分祭 斎行

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2月11日 紀元祭 斎行

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2月17日 祈年祭 斎行

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三月の陰陽會の祭典及び行事予定

三月三日桃花祭 執行

三月二十日 春季皇霊祭遥拝式

陰陽道の占術の中心となった暦占

【十干と十二支】

陰陽道占術の中心となったものは暦占、つまり正確な暦を起こし、占う対象となる人物や事象の生年などを鑑みて占うべき吉凶禍福、方角などを算出することにあります。その際、基本となる重要な単位が十干と十二支、更にそれらを組み合わせて発生する六十干支です。十干は木火土金水(もっかどこんすい)の五行が更に兄(え)と弟(え)と云う二つの要素に分化すると考えられて生まれたもので、陰陽五行では兄は陽、弟は陰とされています。

甲(きのえ・木の兄)、乙(きのと・木の弟)、丙(ひのえ・火の兄)丁(ひのと・火の弟)、戊(つちのえ・土の兄)己(土の弟)、庚(かのえ・金の兄)辛(かのと・金の弟)、壬(みずのえ・水の兄)癸(みずのと・水の弟)を言います。

甲…虫の甲羅や種子の殻を表わす。冠、兜、頭部の、優等の意味。

乙…曲がりくねると云う意味。魚鳥の腸、物乞いも表わす。

丙…かまどに火が燃えると云う意味。明らかと云う意味でもある。

丁…釘を打つと云う意味。頭数、人員、男の数、壮丁の意味。

戊…樹木が茂ると云う意味。

己…引っ張って直線にする、まとめる、立つと云う意味もある。

庚…実が熟する、新しく実る、改まる、時が移るなどの意味。

辛…短剣で刺す、刺激する、からい、痛い、苦しいなどの意味。

壬…持っている、耐えている、妊娠、責任と云う意味。

癸…四方に距離を測る、測量すると云う意味。

一方、十二支とは十二年で天空を一周する木星の軌道の対角線上に陰陽道で想像した神星を充て、その位置を十二区分したものです。この想像上の神星を陰陽道では太歳(たいさい)と呼び、天徳を司る星としています。時を知り、未来を解読することの出来る十二支は、それぞれが神とされました。この十二支に動物を充てたものが所謂干支です。またこれらの神は陰陽道で使役される式神(しきがみ・しきじん)ともされ、十二神将に発展していきました。十二支は次のような意味を持ちます。

子(ね・ねずみ)繁殖・子供・養う、慈しむと云う意味。

丑(うし)物の結び目、物事の要領と云う意味。

寅(とら)慎む、油断しないと云う意味。

卯(うさぎ)開く、出る、と云う意味。

辰(たつ)本来は龍の星座を表わす文字。天空で一番光を放つ木星のことでもあり、太陰神が宿るとされ特別視されていました。

巳(へび)蛇と云う意味。

午(うま)穀物をつく杵と云う意味。

未(ひつじ)まだ取らない、まだ~しないと云う意味。

申(さる)屈伸する胴体と云う意味。

酉(とり)酒、醸造物と云う意味。

戌(いぬ)武器で勢いを見せる、威勢を見せると云う意味。

亥(いのしし)草木が地上に根を張っている様、草根と云う意味。

「壬申の乱」「戊辰戦争」など事件が起きた年の干支で表現された干支紀年法があります。今年は「壬辰」です。大きな変動が起きる可能性を秘めた年ではないでしょうか。

【六十干支】

十干と十二支の組合わせを六十日周期で循環させることを十干十二支又は六十干支と言い、簡単に干支と云う場合もあります。十干と十二支はそれぞれに陰と陽、陰干と陰支と陽支と云うように分けられます。干支の結びつきは陽干なら陽支、陰干なら陰支と限って結びつく事が出来るので、例えば陽干と陰支の甲丑、陰干と陽支の丁寅という干支は存在しません。

六十干支がもとになって還暦と云う習慣があります。これは六十歳を迎えた人が赤い頭巾を被り赤いチャンチャンコを着てお祝いする儀式ですが、赤いものを身に就ける理由は「もう一度生まれ変わって出直す」と云う意味が込められており、赤色は赤ちゃんの意味でもあります。還暦とは満六十歳になった時点で、もう一度生まれた年の干支を迎えて、心機一転始めると云う意味が含まれているのです。

(『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)

桔梗だより 平成24年2月号

1月の陰陽會の祭典および行事

元旦 歳旦祭を斎行致しました。

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1月3日、元始祭を斎行致しました。

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一月七日 昭和祭を斎行致しました。

一月九日 成人祭を執行致しました。

一月廿日 恵比寿祭を執行致しました。

二月の陰陽會の祭典及び行事予定

二月三日   追儺式・節分祭 

二月十一日 紀元祭 

二月十七日 祈年祭

 

陰陽道の占術のひとつ、暦占

(暦に記された年月日の占い)

陰陽道を信奉していた藤原道長の有名な日記『御堂関白記』は、具中暦に記されたものです。具中暦とは星宿(せいしゅく)、干支、吉凶などを細かく注した暦の事で、日毎に二、三行空白があり日記を記すようにしたものです。その名残が現在の運勢暦です。年や月に比べて日の吉凶はその数が非常に多いのですが、そのほとんどは晴明公の著作とされている『簠簋内伝金烏玉兎集(ほきないでんきんうぎょくとしゅう)』に繰り出し方が記されています。毎日に配された十干十二支の組合わせ、陰陽五行の相生相剋などによって吉凶が定められています。

現在の暦は太陽暦の一つであるグレゴリオ暦です。明治六年に旧来の吉凶付きの暦注が迷信であるとして廃止され、単純に日にち、曜日、祝祭日が記されたものになりましたが、今まで暦注に慣れ親しんでいた人々にとっては吉凶が全く分からない新しい暦に物足りなさを感じていました。そこで幕末頃から民間の暦にひっそりと記載され始めていた六曜(ろくよう)だけは迷信の類ではないと云う事で、引き続き記載されたのです。このことから却って六曜人気に拍車をかけることとなり、大東亜戦争終結後、爆発的な人気となりました。

六曜とは現在の暦には必ずと言っていいほど記されている先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口と言われるもので、元々は日取りを区別する為の単位として用いられていたと言われています。六曜は支那の唐の時代、天文学者李淳風が発明したとされていますが、起源ははっきりしていません。一見不思議な日取りの配当を見せるので、不可思議で御利益がありそうな暦注として人気を博していますが、実際はただの迷信にすぎません。つまり迷信を排除するとしてそれまで長きに亘って使い続けてきた意味のある暦注を廃止し、逆に単なる迷信である六曜を用いる事になったとは何とも愚かしい限りです。

暦は陰陽寮の中の暦道で作成されました。暦道は陰陽道や天文道に比べるとやや軽視されていましたが、他の二道よりも占い的呪術的要素が最も少なく、科学的な研究をしていた部門と言えます。暦道の主な役割は次のようなものでした。

一、暦道を学ぶ学生を育成する。

二、毎年の頒暦(はんれき)を作成する。
支那の暦書(陰陽書)を参考にして八月一日までに翌年の暦を作成し、十一月朔日(一日)に中務省を経て奏聞し、役所に頒布する。これは「御暦(ごりゃく)奏の儀」と呼ばれ朝廷の年中行事の一つになっていました。(七曜御暦は正月一日に献上しました)

三、日食の予報。
暦博士にとって日食を予報することは特に重要な任務でした。予め日食が起きる年月日を予想すると、その正月朔日に陰陽寮に申し出て、日食に先立つ八日前に中務省に上申しました。日食に神経質になっていたわけは、日食は地上に厄災をもたらす天の兆しであり、枉津日(まがつひ)、穢れであるからです。日食当日は朝廷の公務は中止され、紫宸殿をムシロで包み、穢れを避けて篭られました。『禁秘抄』には、「天子殊に其の光にあたりたまはず、蝕の以前・以後と雖も、其の夜光に当りたまはず、日・月これ同じ、席をもつて御殿を裹み廻らし、供御ごとく其の光に当らず」とあります。

毎年十一月朔日に行われる「御暦奏の儀」には天皇専用の具注御暦二巻と頒暦一六六巻が奏進されました。

もともと具注暦は朝廷と官吏だけで使われていたものですが、鎌倉時代に入ると読みやすい仮名暦と云うものが普及し、民衆にも親しまれるようになりました。それらは基本的には賀茂家の作った原本を元に、暦の制作を任されていた京都の摺暦(すりごよみ)座という団体が一手に引き受けていました。当時摺暦座は大経師(だいきょうじ)と呼ばれていました。しかしながら物事を行うにあたっての毎日の吉凶が記されている暦の人気は日本各地で高まり、大経師の作る公式暦以外に各地で独自の暦も作られるようになりました。主な地方暦は次の通りです。


丹生(にぶ)暦…三重県多気郡の賀茂杉太夫版行の暦。紀州暦。


伊勢暦…
十五世紀後半、伊勢神宮の御師が御札と共に頒布した暦。伊勢神宮の土産として全国的に普及した、江戸時代の代表的暦。


鹿島暦…鹿島神宮によって頒布された暦。利根川中流から常陸の国一円に頒布された。閏月を神託により決めていたとされる。


南部暦…賀茂家の子孫である光徳井(かでい)家が奈良で頒布した暦。


泉州(せんしゅう)暦…和泉信太郷舞(いずみしのだごうまい)村の聖神社の神官藤村家が作った暦。売暦をしばしば行い、宝暦五(一七五五)年以降、発行を禁止された。

大坂暦…室町時代にあったが、永禄二(一五五九)年に丹生暦との相違が発覚し、頒布が差し止められた。


三島暦…奈良時代に伊豆三島に土地を賜った河合某が、その土地に天文台を立てて作暦したとされる。


大宮暦…埼玉県大宮氷川神社で版行した暦。室町時代には京都とは独立して関東一円に頒布されていた。


仙台暦…仙台藩が版行した暦。貞享の改暦以後、幕府に無許可で暦注を記載していた為、正徳五(一七一五)年、に発行禁止処分になった。


会津暦…会津諏訪神社が版行した暦。


薩摩暦…江戸時代薩摩藩が独自に版行を許された暦。


南部絵暦…南部地方で文字を知らない農民の為に絵で説明している暦。  (『旧暦で読み解く日本の習わし』青春出版社 参照)



現在、暦はカレンダーと云う洋風の呼び名で単なる日取りを見るだけの味気ないものになってしまっていますが、明治以前の暦注は庶民にとってもあらゆる物事の吉凶を記した非常に重要なものであり、更に暦を管理することは天下を統治する意味に於いて最も重要なものとされていました。

暦注の意味を再認識し、日々の生活に活かしていくことで、禍を防ぎ吉祥をもたらすことが可能になり、人生が円滑に送れるようになることでしょう。

(次号に続く)

桔梗だより 平成24年1月号

12月の陰陽會の祭典および行事

12月23日 天皇御誕辰奉祝祭を斎行致しました。

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12月24日 大正天皇多摩陵遥拝式執行

12月31日 師走大祓式・除夜祭斎行致しました。

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一月の陰陽會の祭典及び行事予定

一月一日 歳旦祭

一月三日 元始祭

一月七日 昭和天皇武蔵野陵遥拝式

年頭に当たり     陰陽頭 舊事希軍

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新玉の年の始めにあたり、謹んで皇室の御安泰を寿ぎ奉り、大御代の弥栄と皆様のご繁栄、ご健勝を心よりお祈り申し上げます。

昨年は年明け間も無い三月十一日に、東北から関東地方にかけての広範囲を襲った東日本大震災をはじめ、その傷も癒えぬまま九月には和歌山県を中心に関西地方を大型の台風に見舞われ、更には年末には日本全体に大寒波が襲来すると云う、一年を通して日本列島は自然災害に見舞われ、数多くの国民の命を失った年となりました。

東日本大震災は千年に一度と言われる、平安時代に発災した貞観地震以来の大地震であり、地震による大津波に襲われた福島第一原発は菅政権による度重なる失策によって建屋が吹っ飛ぶと云う水素爆発を起こし、その結果放射能が広範囲に亘って漏れ出ると云う前代未聞の事故が起きてしまいました。核や放射能に対してアレルギーを持つ日本国民が多い中、政府、東電、マスコミそれぞれが中途半端な情報を拡散したことで、益々国民は動揺し、未だに収まる気配を見せておりません。

大地震に見舞われ、原発事故の犠牲となった東北や福島をいち早く復旧させねばならないところ、菅首相は指導力を発揮するどころか、一向に動こうとしない為、業を煮やした自民党が内閣不信任案を突き付けた結果、民主党内のゴタゴタによって結局は否決されて、恋々と首相の座に居座り続けたのでした。

その間、被災地の方々は一向に復旧しない故郷にいつまでも居続けるわけにはいかないと、故郷を捨てる人々も数多くおられたのではないでしょうか。民主党政権の無策によって、未だに多くの国民が打ち捨てられた状況下に措かれているのです。

菅首相がいつまでも首相の座から降りようとしない状況を見て、民主党内でもこれでは国民から見放されると考えたのか、九月の民主党の代表選挙によってやっと菅首相を引き摺り下ろし、次に首相の座に就いたのが野田首相です。以前、野田首相が保守的な論調を展開していたことから、保守層の中からも野田首相を歓迎あるいは期待する声が上がっていましたが、閣僚人事を見て多くの人が失望し、更には頑強な増税論、突然のTPP交渉参加を口にして、党内をはじめ国会での討論も無く、次々と独裁的に自己の主張を断行していく様子を見て、野田内閣発足からたった三か月で、保守層も野田首相の危険性を感じるようになりました。

また積極的に被災地を行啓されてこられた天皇陛下は、そのお疲れからか十一月には軽い気管支炎になられたことで長期のご入院を

されましたが、御退院後に突然出てきたのが、羽毛田宮内庁長官による「女性宮家」の創設であり、野田首相は「喫緊の課題である」として年明け早々にも政府内で議論するとしています。

東北の復興はおろか復旧さえままならない中で、混迷する日本経済はデフレ脱却の糸口すら見出す事が出来ずにいますが、野田内閣は財源を確保する為、東北の復興の為と称して、大増税に踏み切ろうとしています。数多くの良識ある経済論者の方々によれば、今増税を行えば、日本は亡国となるの他ありませんが、増税ではなく復興債、建設国債の発行によって、内需の拡大を図り雇用を創出し、日本が大きく景気回復をする方法があると声高に主張しているにも拘らず、民主党政府は全く聞く耳を持ってはおらず、全く日本の景気回復をする意志が無いとしか言えません。

将に国難の時代到来となりました。

翻って世界に目を転じますと、比較的好調と言われていた支那経済にあっても最早バブルははじけ、これ以上の経済発展は見込めないと考えられています。

欧米の経済状況もその深刻の度合いは益々深まるばかりで、将に世界大恐慌の様相を呈しておるのであります。

本年は一体如何なる年となるのかと云う予想をしてみるのに、本年の干支である壬辰(みずのえたつ)と云う年は、一五九二年文禄元年の壬辰に文禄の役と云う豊臣秀吉による朝鮮出兵が為された年であります。因みに朝鮮側では壬辰の倭乱と云う呼称を使用しています。加えて時代が下り、壬辰ではありませんが、辰年に起きた、慶応四年(明治元年)の戊辰の役では、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟との内戦、戊辰の役が勃発しました。

更に明治三十七年の甲辰の年には日露戦争を開戦し、世界で初めて有色人種である日本が白人国家露西亜を打ち負かしました。

更に時代が下って昭和二十七年は壬辰の年でサンフランシスコ講和条約を調印し、昭和二十年のミズーリ号艦上での屈辱の調印以来、六年八か月に及んだGHQによる占領統治が終了し独立を果たしました。

また昭和三十九年の甲辰の年には東京オリンピックが開催され、世界中に日本が完全に戦後復興を遂げた事をアピールする国威の発揚が為されました。

このように、辰年とは劇的に我が国に大きな変革をもたらす年であります。

ところで本年二〇一二年は、一月に台湾で総統選挙、三月に露西亜、十一月に米国、時期は未定ですが南朝鮮、仏蘭西でそれぞれ大統領選挙が、支那では代表が入れ替わる党大会が予定されており、世界の情勢や経済に大きな影響を与える複数の国・地域で指導者が交代する年であります。台湾に於いては今まで政権を担ってきた支那寄りの国民党、馬英九政権に陰りが見え始め、親日派の民進党が勢いを増しています。露西亜では昨年十二月、長期執権を握ってきたプーチン首相に反発する大規模デモが起きた事で、次期大統領選に出馬予定することが難しい状況になってきました。米国ではオバマ大統領の指導力の無さが表面化してオバマ大統領の支持が低下し、再選は難しいと言われています。

そして北朝鮮では金日成生誕百周年、金正日生誕七十周年を迎える年でありましたが、金正日総書記が昨年十二月に突然死去すると云う予想もしなかった事態が起こり、北朝鮮を巡る我が国を含めた周辺諸国の状況が流動的になって参りました。次の指導者は予てから言われていた三男の金正恩氏が後継とされているようですが、二十代と云う若さで指導力がどこまで発揮できるのか全く予想もつかない状況です。安倍総理は自身のメルマガで、今こそ拉致被害者奪還の好機也としていますが、民主党政権でどこまでその好機を活かせるのか甚だ疑問であります。世界中が変革の時を迎えています。

話は我が国に戻りますが、本年は明治天皇崩御より百年の節目の年です。日本の近代化を成し遂げ、亜細亜を白人からの解放へ導くきっかけを築いて下さったのは明治天皇であります。

壬辰と云う我が国にとって大きな変革を迎える年にあたり、今こそ明治の精神に立ち返り、我が民族は国難打開の一歩を踏み出し、混迷する世界を牽引するリーダーとなるべきであります。

その為にも戦後レジームから脱却を進めて、日本の誇りを取り戻した形での震災復興を一刻も早く成し遂げ、内需拡大によって世界に先駆けてデフレからの脱却をし、新秩序建設の為立ち上がる秋(とき)が来たのであります。

今までグローバル化と云う事で、日本的な経営方法や日本人的な発想が否定され続け、只管欧米的な方法に転換してきましたが、実は日本的なやり方にこそ難局を打開する糸口があるのであり、今こそ世界に向けて日本的な経営方針を打ち出して広げていくことで、世界的な恐慌を乗り切る可能性を見出すべきです。日本的な経営方針や日本的な精神を世界に輸出して、大恐慌脱却の道筋をつけてやるべきなのであります。

グローバル化などと云う戯言を直ちに廃し、家族的で国民が助け合い、希望と喜びに満ち溢れた一億総中流の復活に向けて邁進すべきであります。

桔梗だより 平成23年12月号

十一月の陰陽會の祭典および行事

十一月三日  明治祭を斎行致しました。

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十一月廿三日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭を斎行致しました。

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十二月の陰陽會の祭典及び行事予定

十二月廿三日  天皇御誕辰奉祝祭・天長祭

十二月廿四日大正天皇多摩陵遥拝式

十二月卅一日師走大祓式・除夜祭

晴明公が活躍した平安時代とは?

    華やかな貴族文化の裏で闇が支配する世界

平安以前は遣隋使、遣唐使を支那大陸に遣わすなどして支那や朝鮮半島の外来文化を盛んに取り入れましたが、この時代には貴族の権力闘争が絶え間なく、政局が乱れ、疫病が蔓延し、人心が荒廃した時代でもありました。その後、菅原道真の建議により寛平六年(八九四年)に遣唐使が停止されたことによって、日本独自の国風(くにぶり)文化が栄えていきました。

今に残る貴族の雅な文化は平安時代に花開いたものですが、この華やかな貴族文化の裏には魑魅魍魎、怨霊が跋扈する闇の時代でもありました。

この時代には天皇や貴族が徹夜の歌会を度々開いたと云う記録が数多く残っていますが、遊ぶことが目的ではなく体内にいると信じられていた三尸虫(さんしちゅう)が寝ている間に抜け出して寿命が減らされないようにする為でした。

また現代には民間の伝統行事として伝わっている人生儀礼や五節句などの季節の行事は、もともと陰陽道による宮中祭祀として行われていたものであり、これらの穢れを祓う神事はすべて悪霊を遠ざける為のものでした。そしてこれらの祭祀の大半は、貴族らが怨霊の祟りから身を守る為に行われたものだったのです。

祭祀に留まらず【方忌(かたい)み】(凶の方向に対してひたすらじっと待つ)、【方違(かたたが)え】(吉の方向に回り道する)、【物忌(ものい)み】(凶の日は家に閉じこもる)など日常生活に至るまで陰陽道による様々な穢れや怨霊を避ける儀式を頻繁に行っていたのは、貴族らが怨霊の祟りを如何に恐れていたかを物語っています。

一般的には奈良時代に数多くの寺院が建立された理由は鎮護国家と言う事になっていますが、つまりは貴族の権力闘争によって人心の荒廃著しく、外来文化と共に様々な疫病がもたらされたことで、政局が混迷したことによって仏教の力を借りて国を治めようとしたということです。

奈良時代末の貴族の権力闘争は凄まじいものがありました。光仁天皇の時代に藤原式家の藤原百川(ももかわ)は皇太子である他戸(やりど)親王ではなく自らに有利な山部親王を天皇にする為に謀略によって他戸親王と母親の井上内親王に無実の罪を着せて監禁した後殺してしまいます。井上内親王は百川を恨んで怨霊となったと伝えられています。『水鏡』には「息を引き取るや、たちまち蛇身と化した」と記されている事から、恨みが如何に強かったかが分かります。祟りは井上内親王の死後、翌年から始まります。夜になると空から都に瓦や石、土砂が降ると云う事が二十日続き、更に翌年の九月にはこの謀略に協力した藤原良継(よしつぐ)が死に、冬には大日照りが起きて宇治川の水が枯れかかり、十二月には首謀者の藤原百川と光仁天皇、山部親王が揃って鎧をまとった百人の兵士に追われる夢を見て背筋を震わせます。そしてその二年後には百川の祈祷役の僧が、百川が井上内親王を殺した罪で首をはねられるという夢を見た日、百川は急死してしまいます。『帝王編年記』には「頓死」と記録されている事から壮絶な死に様だったようです。

しかしながら百川の功績は、称徳天皇が僧侶弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位につけようとした際、和気清麻呂に働きかけてその企てを防ぎ、称徳天皇が崩御すると道鏡を追放して光仁天皇を擁立し、更には桓武天皇の立太子に尽力し、平安遷都への道を拓き、その後の藤原氏の長い繁栄の礎を築いたことです。また平安時代には藤原一族が繁栄したことで、世界に誇る日本の国風(くにぶり)文化が大いに栄えた事も挙げられます。

ところで藤原百川の謀略の末、山部親王は皇太子になり、後に桓武天皇となりますが、長岡京への遷都をめぐって対立していた弟の早良(さわらの)親王を陥れて流罪にしたことで、早良親王が死した後怨霊となり、長岡京は早良親王の呪いで破壊されてしまいます。あまりの祟りのすごさに新たな都を造営したのが平安京です。平安京は陰陽道を駆使して造営された都であり、あらゆる霊的守護を施した都です。

このように奈良末期から平安にかけて貴族の権力闘争で敗れた人々の怨霊が渦巻いていたのが平安時代でもありました。

桓武天皇の死後も怨霊たちは平安京と権勢を強めていく藤原一族を呪い続ける事になります。けれども「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長の歌にあるように平安時代は藤原一族がもっとも繁栄した時代でした。藤原一族がこれほどの怨霊と祟りに苛まされていたにも拘らず、道長がこの世の栄華を極める事が出来た裏には安倍晴明公の存在を抜きにしては語れません。

道長の日記『御堂関白記』によると、花山天皇の退位後に晴明公は一条天皇や道長の信頼を集めるようになったことが伺えます。その後、清明公は藤原家に降りかかる怨霊や祟りを陰陽道の方術によって鎮め、その負のエネルギーを藤原一族の繁栄へと転換し、事細かに政(まつりごと)に対して進言を行い、避禍招福の為の祓いを行って、陰に陽に道長をサポートしています。

道長が晴明公によって出世していった実績を見て、他の殿上人たちもそれぞれが陰陽師らに自らの出世や避禍招福を頼む様になったのです。

(つづく)

桔梗だより 平成23年11月号

十月の陰陽會の祭典および行事

十月九日 十三夜祭を斎行致しました。

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十月十七日 神嘗祭遥拝式を斎行致しました。

十月廿日 皇后陛下御誕辰祭を斎行致しました。

十月廿日 恵比寿祭を斎行致しました。

十一月の陰陽會の祭典及び行事予定

十一月三日  明治祭

十一月廿三日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭

稀代の陰陽師、安倍晴明公(九二一~一〇〇五)

晴明公の卓越した能力にまつわるエピソードの内、前世を見通す眼力と式神を自在に操った事、未来を予知した事について紹介します。

花山天皇の前世を見抜いたこと

人間の魂は一貫して存在し、生まれた時には魂の入れ物として肉体を持ち、死ねば肉体は消滅しても魂は生まれ変わるまでの間、常世の国あるいは黄泉の国で、次に生まれ変わるまでを過ごします。

一生の罪や咎が来世にまで持ち越すことは無く、死をもって全て清算されてしまいますが、魂の記憶は持ち越されて個人の性格や身体の特徴の一端になる場合もあります。

晴明公はそのような人間の魂の記憶を読み解くことが出来たと云う伝承です。

《安倍晴明という者は、出家の身ではないながらも那智に千日篭(こも)った行人で、毎日二時間滝に打たれていました。前世は吉野山の聖地の行人であったともいわれています。

花山院が、まだ天皇の位にあったとき、頭痛の病気にかかってしまいました。雨がちなときなど、特に激しい頭痛に襲われ、どうにもならない苦しみでしたが、どんな治療も効果がなかったそうです。

晴明が申し上げるには、

「天皇の前世は尊い行者で吉野の某宿で入滅されました。前世の行徳で天子として生まれてまいりましたが、前世の身体の骸骨が岩のはざまに落ち挟まってしまいましたので、雨ともなると岩が水を含んで膨らみ、骸骨を圧迫し、現世の痛みとなっているのです。ですから病気として治療することは誰もできません。前世の首を取り出して、広い場所に置かれましたら必ずお治りになります。」

そしてこれこれしかじかの場所にある谷底ですと晴明が教えますので、天皇が人を遣わしてその場所を見ましたところ、晴明の言ったとおりでした。そして首を取り出されてからは、天皇の頭が痛むことは無くなったそうです》(『古事談』巻六の六四)

ところで晴明公は天皇の頭痛の原因を探る為に呼ばれましたが、天皇や貴族が病気になる度に晴明公は呼ばれていたことが記録に残っています。寛和元年(九八五年)には藤原実資の室のお産がうまくいかない、永延二年(九八八年)には実資の子供の病気、翌年には一条天皇の病気などです。
何故晴明公は病気の度に呼ばれていたのでしょうか。

これは当時は病気が疫神(えきじん)のせいだと考えられていたからです。疫神には神気・鬼気・霊気の三つがあり、病気になったらまずこれらのどの気によって病気になったのかその原因を占いで明らかにします。そしてそれぞれの対処法によって陰陽師が鬼を祓ったり、密教層が加持祈祷をするかを決めるのです。優れた陰陽師が召されるのは、占術によって病気の原因を明確にし、それに対する的確な処方を明らかにする為でした。

ここで重要なことは陰陽師が医療行為を行う事は無いという事です。医療行為はあくまでも医者の領域で、陰陽師の役割は、病気の原因を突き止め、その原因を明らかにして的確な祓いを行い、更に医薬の有効性や安全性を卜占や方術によって確保する事でした。

式神を自在に操ったこと

晴明公は式神と云う鬼神を自在に使う事が出来たと云うのは有名な話です。狂言師の野村萬斎氏主演の映画「陰陽師」では、式神が女官になって身の回りの世話をしている様子が描かれていました。

晴明公の使う式神には三種類あったとされています。

一つは陰陽道の十二神将や生物、植物の精霊の力を借りた式神。

もう一つは人形(ひとがた)の紙や木片、呪符に念を込めて作り出す式神。

今一つは那智の修行によって得た式神、護法童子(ごほうどうじ)。

晴明公の家にはあまたの式神がいて、来客にお茶を入れたり、酒の支度をしたり、掃除や洗濯までやっていたと云う話がありますが、これは後世の作り話でしょう。

ところがある時期から、式神を家の近くの一条戻り橋の下に隠すようになったとありますが、伝えるところによると、晴明公の妻が気味の悪い式神(恐らく様々な動物たち)が家にいるのを嫌がったからだと思われます。

晴明公は式神を使って呪詛をかけてきた時、相手の呪詛を破って式神を返したと云うエピソードがあります。現代に於いても呪詛は頻繁に行われているようですが、呪詛をかける事は比較的簡単な事です。けれどもかけられた呪詛を見破る事やまして呪詛を解くことは余程の能力の持ち主でなければ不可能で、かけた本人でも出来ない事なのです。非常に高度な秘術を要する事ですが、晴明公は簡単に呪詛を見破りまた解いたことが伺えます。

花山天皇の譲位を予知したこと

晴明公には前世を見抜くだけではなく、未来をも予知する力がありました。『大鏡』では次のように伝えています。

《このように土御門通りを東の方に道兼が花山天皇をお連れ出し申し上げた時、安倍晴明の家の前をお通りすぎになりました。

すると晴明の家から晴明自身の声で、手を何度も強く叩きながら、

「天皇がご退位されるようだ。天にはその兆候が現れているが、もはや事は決まってしまったようだ。すぐに内裏に参って奏上しよう。牛車と着替えの用意をしなさい」と云う声を天皇はお聞きになりました。》

これは花山天皇が自ら天皇位を退位することを決意し、藤原道兼に連れられて誰にも知られず、こっそりと内裏を抜け出し、出家する為に花山寺に向かう話です。そしてその途中で晴明の家の前を通りかかった時、安倍晴明の陰陽師としての卓越した能力を花山天皇が改めて感じたという事でした。この後出家した花山天皇が法皇になった後も、何かと晴明公を頼りにしたのは言うまでもありません。

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当会の陰陽頭、舊事希軍も晴明公同様に、陰陽師として卓越した様々な特殊な能力をもって、会員の皆様を全面的に支えております。

桔梗だより 平成23年10月号

九月の陰陽會の祭典および行事

九月九日  重陽祭を斎行致しました。

九月十二日  十五夜祭を執行致しました。

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九月十九日  敬老祭を斎行致しました。

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九月廿三 第六回晴明桔梗まつりを斎行致しました。

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十月の陰陽會の祭典及び行事予定

十月九日  十三夜祭

十月十七日  神嘗祭遥拝式

十月廿日  皇后陛下御誕辰祭

十月廿日  恵比寿講

稀代の陰陽師、安倍晴明公(九二一~一〇〇五)

ご祭神、安倍晴明公は平安中期、賀茂光栄と共に陰陽道に秀で、摂関家(藤原氏)をはじめとする貴族たちに重用され、各種の行事の勘申や泰山府君祭などの様々な神事を行いました。

「今昔物語」や「宇治拾遺物語」には、その眼力は人の目には見えない悪鬼や怨霊を見出し、その方術の強さはどのような呪いをもはね返し、また式神と呼ばれる鬼神を自由自在に操っては、京を脅かす悪鬼や怨霊を退治したと記されています。

化生の者」として

晴明公の生涯は謎に包まれています。「臥雲日件(がうんにっけん)録」によると、晴明公は「化生の者(妖魔のように親を持たない、自然に世に生み出された存在)」であるとされています。

最もよく知られる晴明公出生にまつわる伝説は、晴明公の母が狐であると云うものです。

「簠簋(ほき)抄」には、晴明公の母は和泉国(大阪府)信太の森の老狐であると記されています。老狐が遊女に化けて旅をしていた途中、常陸国(茨城県)筑波山麓の猫島に三年間滞在し、そこで老狐は安倍仲麻呂の子孫と出会い共に暮らすようになり、安倍の童子(晴明公)を産んだとされています。

母は童子が三歳の時、狐の姿を見られた為に、恋しくば訪ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉と云う和歌を残して姿を消しました。

童子は京に出て清明(晴明)と名乗るようになった後、信太の森を訪ねて母と再会し、母が信太大明神であったことを知ります。

母親が狐なのではないかと云う話は、晴明公が昼間は寝ていて夜中にしか出歩かなかったことや色白であったこと、式神を駆使して方術を施したり、前世を言い当てたり、予言したりなど、人間離れしていたことからこのような噂が広まったと言われています。

大陰陽師としての秘術の数々

晴明公が何歳で陰陽師になったのかは記録にはありませんが、陰陽師として発揮した秘術の数々は「今昔物語集」「宇治拾遺物語」「古今著聞集」や公卿の日記にも残されています。

一、花山天皇の前世を見抜いた。「古事談」

一、式神と云う鬼を自在に操った。「今昔物語集」

一、死者を蘇らせることが出来た。「今昔物語集」

一、人の操る式神を隠す力があった「今昔物語集」

一、花山天皇の譲位を予知出来た。「大鏡」

一、人の感情を操る事が出来た。「北条九代記」

一、どんな呪いをも返すことが出来た。「宇治拾遺物語」

一、在原業平の家を災害から封じた。「無名抄」

一、藤原道長の命を眼力で救った。「古今著聞集」

これらはいずれも占術や方術を駆使し、人の過去も未来も見通し、人にあらざる力を使った晴明公の秘術に関する証言です。

晴明公と龍宮伝説

また複数の神社に晴明公の龍宮伝説が伝わっています。

安倍童子(後の晴明公)は鹿嶋明神への参詣の途中、子供たちに殺されそうになっていた蛇を助けると、蛇は助けられたお礼に童子を龍宮に招き、蛇が乙姫であることを明かしました。龍宮から帰った童子は、鹿嶋明神の境内で飛んできた二羽の烏が鳴くのを聞きます。すると烏薬の効果で烏の鳴き声が人語のように分かりました。鳥たちは「都で村上天皇が重病で苦しんでいる。病気の原因は去年、神殿を造営した時丑寅の方角(鬼門)の柱の礎に蛙と蛇を埋めたからだ」と云う内容の話でした。童子は京に上って「天下無双の博士」と書いた札を立て、これが廷臣の目に留まり、童子に天皇の病気の原因を占わせることになりました。そして童子の言う通りに蛙と蛇を取り除くと天皇は快癒しました。童子はこの功によって官位を賜り、その時が丁度清明節であった為に、清明(晴明)と云う名を授かりました。

幼少の頃から百鬼夜行を見る

晴明公は並ぶ者がいないほどの陰陽師と云われた賀茂忠行に陰陽道を師事しました。幼い頃からその道に秀で、忠行は晴明公に「些かも心もとない事」は無かったと言われています。晴明公に陰陽師としての天資があったことは「鬼共」が見えたという話から伺えます。「今昔物語集」には、牛車に乗った忠行に同行して歩いていた晴明公が下京あたりで百鬼夜行を見たと言って、寝ていた忠行を起こし、すんでのところで難を逃れたと云う話があります。幼少の頃から鬼が見えるという事は、晴明公の呪術者として天賦の才があったことを伺わせます。このような優れた才能の持ち主であったからこそ、忠行は自らの持つ全ての陰陽道の奥義を晴明公に授けたのでした。 

(つづく)

桔梗だより 平成23年9月号

八月の陰陽會の祭典および行事

八月十五日日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭を斎行致しました。

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九月の陰陽會の祭典及び行事予定

九月九日  重陽の節句・重陽祭

九月十九日  敬老祭

九月廿三日  例大祭・晴明桔梗まつり

陰陽道と宮中祭祀(二)

星辰祭(せいしんさい)

星辰とは万物の恵みを司る星神のことを言います。陰陽道祭祀の多くは星辰を拝する祭祀で占められています。あらゆる星が不動の北極星を中心として巡る事から、この星こそが万物の中心、宇宙の根源に位置する最高神であり、ここから日月が生じ、五星が生じて陰陽と五行とになったと観念されました。

太一(たいいつ)、昊天(こうてん)上帝、天皇(てんこう)大帝、北辰(ほくしん)などは全て最高神としての北極星(及び北斗七星)の別名です。天皇(てんのう)の称号もここから来ています。

正確には天皇陛下と称しますが、この陛下とは天皇(てんこう)の陛(きざはし・下段)に控えているという意味で、天皇(てんこう・神)と人とを結ぶ神官を意味しています。また北極星の周囲を取り巻く星座は天帝の住居である中宮として拝されました。

星辰のお祭りは多いのですが、中でも現在でも行われている、毎年元旦の寅の刻(午前四時)に宮中で行われる四方拝(しほうはい)は重要です。天皇は先ず天皇自身のその年に於ける支配星の名を唱え、続いて北辰(北極星と北斗七星)を拝し、次に天を拝し、西北に向かって地を拝し、東西南北の四方、歴代天皇の王陵に向けて拝してから、その年の安寧を祈念します。そして呪言の最後には「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」と言う陰陽道独特の呪文を唱えられます。

星辰祭には他に玄宮(げんぐう)北極祭、鎮宅霊府神祭、泰山府君祭、天曺地府祭などが挙げられます。

鬼神祭(きじんさい)

ここで言う鬼神とは、疫病や災厄をもたらす穢れ神を言います。これらは天皇に仇なす「諸々の順(まつろ)わぬ鬼神(かみ)」と言う概念です。鬼神は時には政敵であったり、征服した地方の長であったりしました。天皇によって滅ぼされた人霊は怨念を伴って無数の悪鬼となり、人知れず宮城内に入り込み、邪悪な穢れによって疫病や災害をもたらしていました。

鬼神祭とはまさにこうした悪鬼による災厄(ケガレ)を祓う事で宮城や都の中を清浄(ハレ)に保つことを目的としました。

四角四境(しかくしきょう)祭と呼ばれる祭りがその代表的なもので、四角は天皇の住まう宮城の四隅、四境は都の周囲、畿内十処にある境を指し、折に触れて実施されたこれらの呪祭によって都内の穢れは多くの場合、鴨川や桂川、淀川を通じて結界の外に排出されました。

追儺(ついな)

追儺とは天皇の私的な穢れ祓いの儀礼で毎年大晦日に宮城内で行われました。今日、二月に行われる節分行事がこの追儺を原型としたものです。

追儺儀礼では金面に四眼の仮面を就けた方相師(包装紙)が矛や楯を持ち、宮城内にいる悪鬼を祓う所作をしながら巡回します。

後世この異形の方相師が自ら穢れをまとい、祓われる側に変じたものが節分の鬼です。

こうした鬼神祭では先ず陰陽師による卜占(ぼくせん)が行われ、どの場所がどのような鬼神によって穢れているのか、それをどう祓うのか、といった一連の判断を行い、必要に応じて適切な呪祭を執行しました。

御霊会(ごりょうえ)

天皇が過去を悔やみ、姿なき亡霊に恐れおののく時、御霊は生まれます。度重なる天災や飢饉はかつて政争に敗れ憤死した政敵が、鬼神に変じてもたらしたものと信じられていました。国の最高祭祀者である天皇は、通常の鬼神祭では祓いきれない強大な災厄を除く為、ある時は遷都し、ある時は怨霊を神に祭り上げることでこれに対処しました。鎮めの為の祭祀は災厄が沈静化するまで幾度となく続けられました。京都の上・下御霊神社に祀られる十柱の御霊はその代表的な神々です。

そのご祭神は桓武天皇によって排斥され悲嘆の内に亡くなった早良(さわら)親王や廃后の後、皇子の他部(おさべ)親王と共に暗殺された井上(いがみ)内親王などの五柱に、讒言によって失脚した菅原道真公などの五柱の御霊を合祀したものです。京都では御霊神社、崇道(すどう)天皇社、北野天満宮などと共に御霊信仰の拠点となりました。

天皇が行った祭祀は、その怨念故に天災や疫病によって世に災厄や祟りをもたらす霊を鬼神として祓う事ではなく、怨霊となった御霊を鎮める事によって、災厄でなくご加護を頂くようにする為の呪祭であります。

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天皇をはじめ有力公家、また国家を安寧に導く為にも、このような陰陽道の方術による祭祀が必然だったと言えます。

「延喜式」には既に陰陽道祭祀が記録され、平安末期には八十八種もの陰陽道による祭祀が挙げられています。その後も陰陽道祭祀は増え続け最終的には百五十以上であったとされていますが、国家祭祀と云うよりも天皇御一人の信仰による祭祀であった事、また祭祀の多くは秘密裏に執行されたことから全貌は明らかではありません。

けれども明らかに言えることは、天武天皇によって陰陽寮が創設されて以来今日に至るまで、陰陽道祭祀は千五百年間もの間、脈々と宮中祭祀として引き継がれているのです。

明治三年に陰陽寮が廃止されたことで、宮中での多くの陰陽道祭祀は失われ、祭祀の多くは神社に引き継がれましたが形骸化しました。そして天皇家を護り続け、日本を形造ってきた陰陽道の方術は民間に流出したことで、本来の意義を失い、単なる占いや除霊に成り果ててしまいました。

しかしながら陰陽道とは世界にも類を見ない方術と科学の融合による国家統治の手法であり、陰陽道を操る陰陽師とは方術、科学それぞれの分野で最高峰の知識を有し、その知識を有効に行使し得た能力者だったのです。 

日本の天皇はこのような世界最強ともいえる陰陽師集団によって守られてきたとも言えます。

明治以降、陰陽寮は廃止され、陰陽道の知識は雲散霧消してしまいましたが、宮中祭祀として継承されている陰陽道祭祀をはじめ、人生儀礼、四神相応の都市造り、伝統行事などの中にその痕跡を留め、ほとんど形骸化してしまったとは言え、その形の中に薄まった形で辛うじて日本と日本人を形造っていると言えます。

当会の方術は、陰陽道が最も隆盛期であった平安時代に実在し、多くのエピソードを遺した当会ご祭神である安倍晴明公直伝の方術です。

また晴明公同様、陰陽道に精通した陰陽頭舊事希軍が、国家存亡の危機にある現在、陰ながら方術を駆使し、國體護持の為、日夜奮闘しております。

本来ならば、天皇のお傍近くでご守護申し上げることが陰陽師としての職務でありますが、陰陽寮無き今、如何ともしがたく在野にあって獅子奮迅している次第です。

陰陽道祭祀とは巷で言われるような人の吉凶を占う単なる占いではなく、天皇のご守護、国家安泰、國體護持の為の方術を伴った祭祀なのです。

(つづく)

桔梗だより 平成23年8月号

七月の陰陽會の祭典および行事

七月廿二日 結婚感謝祭を斎行致しました。

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八月の陰陽會の祭典及び行事予定

八月十五日日  戦没者慰霊と世界平和祈願祭

陰陽道と宮中祭祀(一)

陽道は日本に於ける神道、仏教をはじめ人生儀礼、民間の年中行事、日々の慣習に至るまで広く深く浸透しています。

これらの陰陽道発祥の神事や行事は、もともと宮中で行われていたものが、時代が下るにつれて民間に流出し、更に明治三年に陰陽寮が廃止されたことで陰陽道祭祀は神道儀礼に、天文学をはじめとする地理地勢学、暦学、天災の予測、都市計画などの科学や健康医学など医学の分野は国や民間の機関にそれぞれ移譲され、占術や慣習は民間の人生儀礼や年中行事の中に吸収されていきました。

現在では神社の神主によって行われている地鎮祭、上棟祭、六月と十二月の晦(つごもり)に行われる大祓や様々な清祓いの神事、節分や桃花神事(雛祭り)厄除け、七五三などあらゆる神事はほとんどすべて陰陽道の祭祀に端を発したお祭りです。

しかしながら本来これらのお祭りは陰陽師の役割であり、更には祭祀の対象となったのは天皇を筆頭とする有力公家などに限られていました。

陰陽寮は天皇の私的な機関であり、陰陽師は天皇をはじめとする有力公家の要請を受けて秘密裏に神事を行っていたのです。陰陽道祭祀とは極めて個人的で呪術的性格を持った祭祀と言えます。

宮中祭祀とは陰陽道祭祀であり、天皇を鬼神からご守護申し上げ、天意を図り、天命を全うする為にのみ機能した極めて個人的な呪術的性格を帯びた祭祀なのです。

以下、いくつかの陰陽道による宮中祭祀を紹介します。

泰山府君祭(たいざんふくんさい)

支那では聖なる山とされた五岳の中でも最高位として崇められ、死者の集まる霊山とされる東岳・泰山の神、泰山府君は「群山の祖、天地神霊の府」とされています。この為泰山府君は人の生死を司る冥府の神と信じられ、畏怖され続けています。

泰山府君を陰陽道の主神としたのは安倍晴明公であり、晴明公は天皇を私邸に招き、この神を祀る陰陽道祭祀、泰山府君祭を極秘裏に行いました。「今昔物語集」「吾妻鏡」「古今著聞集」などの説話にも邪狐調伏や延命術などに威力を発揮する祭祀として泰山府君祭が登場します。

祭祀の基本は穢れを祓い、人の命を司る泰山府君神に延命を願うと云うお祭りです。

この祭りは土御門(つちみかど)家の陰陽師によって行われました。天皇は自らの御裳(みころも)や手鏡、金属や木、紙などで出来た人形(ひとがた)を祓いに用い、それらに息を吹きかけた後、体中を撫で、穢れを人形に移し、陰陽師に託します。祭祀者はご祭神である泰山府君に祈り、その後撫物(なでもの)は宮城内に埋められたり、河川に流したりしました。

こうした祭祀は深夜、極秘裏に数日に亘って執り行われました。

同様の陰陽道祭祀に西岳真人祭(せいがくしんじんさい)、五帝四海神祭(ごていしかいじんさい)などがあります。

天曺地府祭(てんちゅうちふさい)

基本的には泰山府君祭と同様の穢れ祓いの祭祀ですが、このお祭りに限っては天皇践祚(せんそ)の一代に一度だけしか執り行われませんでした。後には天皇のみならず将軍宣下の際にも行われました。祭祀の執行は土御門家の独占で、儀礼そのものも土御門家邸内に於いて密かに行われました。

泰山府君祭をより厳格にした天曺地府祭における「天曺地府」とは天帝をはじめとする神々の役所を指し、陰陽師によって祈願されるご祭神は泰山府君一神に留まらず、北帝大王、五道冥官、司命・司録、南斗・北斗星官などの北極星を中心とする星神やその従者の神などこの役所に集う主神から神の官僚までに至ります。

陰陽師は新たに即位した天皇をこれらの天界の有力神に引き合わせ、「黒簿(こくぼ)」と呼ばれる書類を書き変えます。

黒簿には天皇をはじめとする全ての人々の寿命や賞罰が記されていて、陰陽師はここから天皇の名を削り、生者の名簿に書き写すことで諸々の禍を除き、天使の延命と国政の安泰を祈願したのです。

「続日本紀」には延暦四年の冬至の日に桓武天皇によって交野原、柏原(京の郊外)に於いてこの祭祀を行ったとあります。天空の星々を一望できる郊外に円丘の天壇を築いてそこに天神を祀り、社(やしろ)に地祇(国神)を祀り、宗廟(そうびょう)を建て皇祖霊を星神に祭り上げて神々と同席させ、これにより國體の安泰と延命を祈願したのです。

その際、この祭りでも中心となる呪術として撫物を使った穢れ祓いが行われました。主に用いられた撫物は御裳や手鏡でした。

(次号に続く)

桔梗だより 平成23年7月号

六月の陰陽會の祭典および行事

六月六日 疫病封じ祈願祭を執行しました。

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六月卅日 夏越之大祓祭を斎行致しました。

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七月の陰陽會の祭典及び行事予定

七月廿二日   結婚感謝祭

天武天皇と陰陽道

そもそも陰陽道とは何か。

明治政府の近代化政策によって、陰陽師と云う官僚を束ねる陰陽寮と言う組織が廃止されて以降現代に至るまで、陰陽道や陰陽師と言う言葉や概念が日本人の記憶から薄れてしまい、現在では映画やテレビなどで占い師や悪霊祓いのような扱いになっておりますので、単なるオカルト的な職業であると認識されている場合が多いかと思います。

しかしながら実は陰陽道と言うものは、天皇の宮中祭祀をはじめ現在の日本の伝統文化すべてと言っても過言ではないほどに、陰陽道の様々な祓いや考え方が浸透しており、日本と言う国は将に陰陽道によって形造られた国であると言えるのです。

あまりにも多岐に亘って日本の伝統文化に浸透しているので、すべてをここで紹介できませんが一部をご紹介致しますと、人生儀礼をはじめ、季節の行事、また最近は無視されがちですが、家を建てる際にどのような土地が良いか地相を見たり、鬼門や裏鬼門などに留意して家を設計するなどの家相を見るなどすることは、元々陰陽道に由来するものです。

これは宮都を造る際に陰陽道によって四神相応の地を選んだり、宮城に鬼門を除ける細工をするなどしたことを、陰陽道が民間に流出した際に見よう見まねで行われたことから発しています。

近年、陰陽道は単なる支那由来の哲学体系であると言われているようですが、それは全くの間違いです。

陰陽道とはもともと日本に古くから存在していた神々をお祭りする呪術的な側面を持つ古神道に、仏教伝来と共に入ってきた陰陽五行と言う森羅万象すべてを解き明かす哲学的体系である道教を醇化させて作った、日本固有のものなのです。

つまり陰陽道とは支那由来の道教と言う完成度の低く未熟な哲学体系を我が国の古神道と融合、醇化させることで、高度な思想体系に基づく技術に革新させたものです。つまり呪術と科学が一体となった倫理体系であり原理システムと言えます。

陰陽道はオカルト(呪術・方術)と科学を組み合わせた業であり、陰陽五行によって宇宙の成り立ちから大自然の循環、国家の統治法、城下町や都市の造営法、人体の構造、仁術(医学)、栄養学、心理学、倫理学に至るまで解明解説が可能であり、さらに方術(呪術)によって怨霊をはじめ土地、樹木、家などに存在するあらゆる神々を鎮めることが可能になります。

陰陽師(あるいは方術師)とはこの陰陽道を駆使して、天皇を補佐し、国家の安定や平安を司る者たちを言いました。

陰陽道の祖は天武天皇と考えられています。天武天皇によって初めて内裏に陰陽寮と占星台(天文台)が設置され、陰陽寮に所属する陰陽師は、天文術を駆使して地の異変を事前に察知し、天皇に奏上する「天文密奏」と言う非常に重要な任務を負いました。

天文密奏は陰陽寮に属する陰陽頭(おんみょうのかみ)のみが許される特命であり、極秘の任務でした。天文学と暦学、陰陽五行の組み合わせによって予言を行いました。これは科学の分野と言えますが、この異変の予兆を極力避ける為に、呪術つまり方術を用いたわけです。

天武天皇は日本書紀に「天文遁甲(てんもんとんこう)を能くした」と明記されています。天皇自らが天文学、道教の中の方位術である遁甲を得意として、実践されたことが伺えます。

①「天皇」と云う尊号は天武天皇が使い始めたものであり、語源は道教の天皇大帝です。これは北極星を意味する天の支配者、つまり「天の命を受けた者」と云う意味です。それ以前は「大王」(おおきみ)と称されていました。

天命を受けた天皇は天意に沿って治世を行わなければならないことから、常に天意を伺う必要があります。その天意を伺い、天皇に奏上することが陰陽寮の務でありました。

天命を受けた所以は天照大神による天壌無窮の神勅「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」に基づくものであります。

② 新たに天皇として即位する時の践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)を制定しました。この祭祀は道教の封禅(ほうぜん)を起源とし、天曺地府祭(てんちゅうちふさい)と云う名称で安倍家によって行われるようになりました。江戸末期までは大嘗祭と区別していたようですが、明治以降は習合して一体の祭祀となりました。

③完成は崩御された後となりましたが、我が国最初の国書である「古事記」「日本書紀」の編纂選定を指示しました。

④伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮が制定、開始されました。

⑤我が国最初の本格的な都である藤原京は、天武天皇が陰陽道によって計画したものでした。

⑥八色の姓(やくさのかばね)をはじめとする位階の制定、飛鳥浄御原律令による体系立った法規の編纂制定を行いました。

⑦八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)からなる三種の神器を制定しました。

以上のように、天武天皇は陰陽道に基づいて、日本の骨格を造ったと言えます。

2012年9月 4日 (火)

天皇というご存在

天皇とは単なる矮小化された祈りの存在、祭祀王ではありません。

天皇とは現人神(あらひとがみ)であられ、これは明御神(あきつかみ)であられます。

ヤマトタケノミコトが「吾是現人神之子也」と名乗られたとも言われています。

「現人神」を説明すると「人間でありながら 、同時に神である」という存在になります。

それ以前は「大王(おほきみ)」と云う称号を用い、「スメラミコト」「スベロギ」と称して来ました。

「スメラミコト」とは「スメ」は「スム」(澄む=穢れが無い)に通じ、神の領域を示す意味を表わしています。

7世紀後半の天武天皇の時に「天皇」と言う尊号を初めて用いられ、以来「天皇号」が使われています。

語源は道教の天皇大帝(てんこうたいてい)です。

天皇大帝とは「北極星を意味する天の支配者」と云う意味であり、それは「天の命を受けた者」と云う事になります。

「天皇」とはつまり北極星の化身としての宇宙最高の神と言う意味を持ちます。

そして何故天皇は、神となり給えるのかと言うと、天皇は、皇太子から即位によって天皇と云う称号を与えられ、御一代に只一回のみの祭典である「大嘗祭」によって、北極星の力を玉体に宿したご存在となられ、国家と国民の繁栄と安寧を無私の心で願われるご存在となられるのであります。

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やがて、ご崩御なさられた後にも大葬の礼などの祭祀によって、国家鎮護の神として祀られ、国家国民の繁栄と安寧を見守るご存在となられるのです。

このことから単に天皇とは神道の祭祀王(神主の最高位)ではなく、大嘗祭を経て真に北極星の化身としての「天の命を受けた者」としての現人神となられるのであります。

そして天皇とは代々(よよ)天津日嗣(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)に坐(ま)して、食国(おすくに・日本)の天の下の大御業(おほみわざ)を恢(のべ・広め)給へるご存在であられます。

天壌無窮の神勅

天照大神乃賜天津彦彦火瓊瓊杵尊八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙剣三種宝物又以中臣上祖天兒屋命・忌部上祖太玉命・猿女上祖天鈿女命・鏡作上祖石凝姥命・玉作上祖玉屋命凡五部神使配侍焉。
因勅皇孫曰豊葦原千五百秋之瑞穂国是吾子孫可王之地也、宜爾就而治焉行矣、寶祚之隆當與天壌無窮者矣。

このご神勅の意味は、日本の国は天照大神の直系の御子孫たる代々の天皇が統治されるべき国であり、この皇統を維持することで未来永劫の恒久的な発展することをお示しになっています。 

天皇の御位が万世一系の皇統であることは肇国の大本であり、この天壌無窮の神勅に明示されています。

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