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2012年11月

2012年11月29日 (木)

桔梗だより 平成24年11月号

10月の陰陽會の祭典および行事

10月17日 神嘗祭遥拝式を斎行致しました。

10月20日 皇后陛下御誕辰祭を斎行致しました。

10月20日 恵比寿祭を斎行致しました。

10月27日 十三夜祭を斎行致しました。

11月の陰陽會の祭典及び行事予定

11月3日  明治祭

11月23日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭

(今月は陰陽道に関わる記事はお休みです。)

本年、壬辰の年回りに芽吹いたもの

今年初めの桔梗だよりに、本年は壬辰の年回りであることを書きましたが、十カ月を振り返り、我が国の政局あるいは周辺諸国の我が国に対する動きに於いて、おおよそその通りの出来事が起きたと言えます。

壬辰の年とはどのような年回りなのかと云えば、壬(みずのえ)とは、陰陽が逆転する年、物事がひっくり返る年であり、辰(たつ)は新しいものが芽生える年であります。
但し、辰年と言う年周りは良いものも芽吹く年ですが
悪いものも芽吹く年ですから、注意が必要です。つまり、壬辰は物事が大きく動く年回りであります。
従って壬辰とは、昨年から続く問題のための任務や仕事がますます惹起し、世界を突き動かしていくようなことが起きるが、いかなる状況にも動揺せず、その負担に耐え、物事に処することで、その先に次につながる陽気、光が見えてくると云った年と言えます。
壬辰の年に起きた出来事。
1592年文禄元年の壬辰に文禄の役と云う豊臣秀吉による朝鮮出兵が為された年であります。因みに朝鮮側では壬辰の倭乱と云う呼称を使用しています。
前回の壬辰の時は、丁度60年前ですから昭和二十七年でありました。
昭和27年は壬辰の年でサンフランシスコ講和条約を調印し、昭和20年のミズーリ号艦上での屈辱の調印以来、6年8か月に及んだGHQによる占領統治が終了し独立を果たしましたが、国名が「大日本帝国」から「日本国」に変わりました。
壬辰の年には従来の社会仕組みを変える端緒が切られる年になると言えます。

この様な観点から、今年の壬辰と云う年を振り返ってみると。
3年前の政権交代以来、民主党は我が国の国益を失い続けました。
けれども三年間民主党に政権を任せた結果、当初は気付かなかった国民も、デフレによる経済の悪化、露西亜・支那・朝鮮などの近隣諸国による度重なる領土侵犯、日米同盟の空洞化、支那・朝鮮における反日暴動の激化などを目の当たりにして、さすがにこのままではまずいことになるのではないかと気付き始めたと云えます。
政権交代の時にマスコミ扇動による異常な熱気を以て民主党政権誕生に大歓声を送っていた大方の国民も、今では既にその熱気も失せ、逆に民主党を政権の座から引きずり下ろしたいという思いの方が強くなってきているようです。

先の9月に野田首相が新宿駅前で街宣活動を行った時、集まった民衆が「帰れ!」「人殺し!」などの怒号を浴びせるなど、凡そ一国の総理大臣に対する声援とは思えない状況になっていました。

しかしながら一度政権を盗った民主党は、国民の声を無視して、その甘い権力の座を絶対に離そうとはせず、あの手この手の詐欺的手法を用いて延命工作を展開し続けています。

民主党が政権の座にある間に、その背後にある在日朝鮮人らによる組織、民団や朝鮮総連などの圧力で、日本人の保守勢力一掃を狙った「平成の大獄」になりかねない人権委員設置法案を、密かに閣議決定したり、皇室解体の糸口となる「女性宮家推進」など売国法案を可決しようとする動きが見え隠れしています。
このような亡国の危機の中、政治の世界に於いては次々と動きがありました。

大きな動きとしては大阪の橋下市長率いる大坂維新の会が国政に参加すると表明しましたが、橋下市長はポピュリズムによってその言動は左右にブレながら、常にヘゲモニー(覇権)を掌握することに腐心しています。

また4月には国民新党の亀井静香代表が党員に解任されると云う下剋上が起こりました。

その後、小沢一郎氏が民主、自民、公明の三党合意によって採択された消費税増税法案に反対して民主党に離党届を提出、衆議院議員37人、参議院議員12人、計49人を引き連れて民主党を離党し、7月には「国民の生活が第一」と云う政党を立ち上げました。

民主党から次々と離党者が出始めている最中、7月3日、ロシアのメドヴェージェフ首相が北方領土である国後島を訪問、その後8月10日に南朝鮮大統領李明博が竹島に上陸、更に8月14日には天皇陛下に対して謝罪要求するなどの不敬発言、続く終戦の日である8月15日には、香港活動家らによる尖閣上陸、その後民主党政府は立件する事も無く強制送還と云う、我が国の外交上極めて屈辱的と思われる対処を行いました。

そして最早自民党の再生は見込めないのかと諦めていたところ、9月末に行われた自民党総裁選に於いて、奇跡的に安倍元総理の総裁復帰と云う、快挙が成し遂げられました。

実は野田首相が新宿駅で聴衆に罵声を浴びせられた当日、その夕刻に行われた安倍晋三候補と応援演説を行った麻生元総理による自民党総裁選の街宣活動が秋葉原で行われました。そこに集まった五千人以上の若者達が、一斉に安倍応援大合唱を行い、自民党応援するぞ!の熱気に包まれたことを、大マスコミはほとんど報道していません。秋葉原に集結した若者たちは最後に「マスゴミは捏造報道をするな!」「もう騙されないぞ!」「売国奴!」と大絶叫し、連呼しました。日教組教育で反日左翼のイデオロギーを叩き込まれたはずの若者たちが、インターネットによって真実の国史を知った事で、今までマスコミや教師に騙されていたことに対して目覚め、立ち上がった瞬間であったと云えます。
そして此の度の総裁選に於ける安倍元総理の公約は、明らかに保守路線を明確にした内容であり、大いに保守本流としての自民党に寄り戻す意思を明確に打ち出したものでした。
また10月25日には石原都知事が都知事を辞職し、政界再編の起爆剤としての新党を立ち上げると云う決意をしました。
11月初旬にはそれまで自身が応援団として関わってきた「たちあがれ日本」を解党する形で、所謂「石原新党(現時点で党名不明)」を結党するとの意向を示しています。恐らくは相当の保守路線を打ち出し、政界再編に向けて動き出す事は明らかでしょう。

この様に政界に於いては壬辰の年らしく、悪しきものも良きものも、玉石混交で新たな勢力が芽吹き、来年に向けて大きなうねりとなってきています。

また我が国を取り巻く領土問題を孕んだ近隣諸国の動きも明らかに挑発行為に出てきており、外交上間違った判断を下せば、我が国の領土も危うい状況に陥る可能性も秘めています。

来年に向けて非常に気を許せない様々な思惑を秘めた動きが活発化していますが、解散総選挙と云う事態になれば、国民はマスコミ主導の風評に惑わされることなく、真に国益に適う政治家に一票を投じなければなりません。国民の側もしっかりと自覚して、政治家を見極める目を養わなければならないでしょう。

真に国益に適う政治家を選出し、彼らによって国益に適う政治を行ってもらう事で、戦後レジームから脱却を進めて、日本の誇りを取り戻した形での震災復興を一刻も早く成し遂げ、内需拡大によって世界に先駆けてデフレからの脱却をし、我々国民も一丸となって新秩序建設の為立ち上がる秋(とき)が来たのです。


桔梗だより 平成24年10月号

9月の陰陽會の祭典および行事

9月9日  重陽祭を斎行致しました。

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9月17日  敬老祭を斎行致しました。

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9月22 第六回晴明桔梗まつりを斎行致しました。

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9月30日  十五夜祭を執行致しました。

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10月の陰陽會の祭典及び行事予定

10月17日  神嘗祭遥拝式

10月20日  皇后陛下御誕辰祭

10月20日  恵比寿講

10月27日  十三夜祭

日本の年中行事と神まつり

12月13日

「正月事始め」とも言います。煤払いや餅つきなど、この日から本格的に正月を迎える準備をします。煤払いは単なる大掃除ではなく、歳神(としがみ)様を迎える為の行事として行います。

『天和長久四季あそび』

煤払いのなされる日は、江戸の場合は毎年12月13日の事納めの日と決まっており、上方などでは逆にその日を事始めと称し、正月準備を始める日とされてきました。

江戸の街に師走の寒風が吹きすさぶ頃、早くも新年を迎えるための一連の準備がいよいよ始まり、まず最初になすべきことは年末の大掃除であって、江戸ではこれを「煤払い」もしくは「煤掃き」・「煤取り」などと称しました。上の絵では人々は煤払いや餅つきにあわただしく立ち働いていて、門の外には正月用品を売る振り売りや、頭にウラジロの葉を挿して顔を隠した節季候(せきぞろ)と呼ばれる門付職たちの姿も見えます。

将軍家の煤払いは元は12月20日でしたが、三代将軍家光公の忌日(祥月は4月)なのでそれを避け、1640年(寛永17年)以降、この日に固定されたとも伝えられています。煤払いは単なる清掃作業ではなく、新年を間近に控えてのおめでたい祝事となっていて、さまざまな祝儀が振る舞われていました。
作業が終ると、狩野家より奉じられた恵比須・大黒・福禄寿の三幅のおめでたい表具が、将軍の御座所に掲げられることにもなっていました。

(参考サイト)日本の行事・暦、ドキュメント観賞☆自然信仰を取り戻せ!

衣替え

日本人は季節に応じて衣服を改める「衣替え」行ってきました。
6月1日に夏服に、10月1日に冬服に替えるのが一般的です。

以前は学校の制服も6月1日と10月1日を以て夏服、冬服に交換していました。しかしながら昨今は合服のようなものがあったり、特段衣替えに関係なく、自由に着替えられたり、運動用のジャージなどを年中着ていたりして、季節感をはっきりと感じられるような制服が無くなり、一年中だらだらとしたいい加減な印象があります。

衣替えの制度が出来たのは、平安時代以降で、宮廷で習慣化しました。陰暦4月1日に夏装束に、10月1日に冬装束に、調度品ともども改めるのがしきたりでした。

京都の古い家では服装のみならず、衾や障子などの建具や敷物を夏向き、冬向きに全て取り換える模様替えを行い、季節の変わり目を見た目にもはっきりとさせて、実際に夏には風の通りを良くしたり、冬には温かく過ごせるようにと工夫しているようです。また店先の暖簾も夏には麻を用いて涼しげに、冬は帆布(はんぷ)製で重厚な色合いのものに変える事で、お客さんにも季節感を感じてもらえるようにしています。

更には掛け軸などもそれぞれの季節感を表わした絵に掛け替えるなど、見た目の雰囲気を変える事で、涼しさや温かさを感じ取るという日本人ならではの感性を大切にしています。
衣替えの元は、物忌み(ものいみ)の日に行っていた祓への行事で、現在でも多くの神社では、神様の衣替えである更衣祭が行われています。

衣服とともに気分を一新して新しい季節を迎えるのは、開運に欠かせない一つの祓ひの形です。   

(次号に続く)

2012年11月 9日 (金)

日本人の死生観

1】「人は死後神となり子孫を見守る」と云う祖霊信仰

日本人は祖先を敬う気持ちがとても篤(あつ)い民族です。お盆を始めとして正月の歳神様をお迎えする行事や春秋の祖霊祭など先祖を敬う神事が数多くあります。

「ご先祖様のお蔭で幸せに暮らせる」「先祖を粗末にすると祟る」とうい考え方は日本人の心に深く伝わっています。

そもそもお盆は仏教の概念ではありません。

仏教の発祥の地であるインドや日本人が持ち帰ってきたところの支那に於いては先祖崇拝は行いません。日本に持ち込まれた仏教がそれまであった日本の神道の祖霊信仰と習合して生まれた行事です。

神道に於いて「死」とは「穢れ(気枯れ・生命力の枯渇)」とされて、忌み嫌われていました。

けれども日本人は古来から、身罷(みまか)った人の魂つまり死霊が丁寧に祀られ鎮まることで、祖霊の仲間入りをして、年月を経て氏神に変化していくものであると考えてきました。

豊かな自然に恵まれた日本では、人間は自然に宿る神の御霊を分け与えられて生きていると考えていました。

そして生前は神と共に生き、身罷るとその御霊は産土神(うぶすながみ)に導かれて祖霊の世界に帰って行き、百年祭を経る頃には氏神となって子孫を見守る存在になるのです。

身罷った後の御霊は子孫によって日々や折々の神事によって丁寧に祀られ、鎮められることで清らかな御霊となり、神となって幽世(かくりよ)から子孫を見守り、正月やお盆、春秋の祖霊祭などの折々の神事によって子孫のところに帰ってくるのです。

子孫たちは自分の家に帰ってくる祖霊を迎える為に「御霊祭(みたままつり)」を行っているのです。

2】人の「死」とは

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人の魂は精神的にも肉体的にも健康な時には胸のあたりに鎮まっていますが、病気や怪我などによって一時的に肉体から離脱してしまいます。

ところが肉体に鎮まることが出来ずに魂が抜け出てしまった時に、肉体の「死」を迎えます。

人間は単に肉体だけの存在では無く、魂魄(こんぱく)、つまり目に見えない霊魂と肉体である魄(はく)とで構成されています。

肉体が死を迎えると、誕生以来霊糸線によって肉体と繋がっていた霊魂は凡そ24時間で肉体から離れます。そして魄としての肉体は火葬されて遺骨となってお墓に埋葬され、霊魂は御霊(みたま)として神道式では祖霊舎(みたまや)で祀られることになります。

魄としての肉体は死後火葬により遺骨だけとなっても、また土葬により腐敗消滅しても、霊魂だけは肉体から離れて存在し続けます。

そして肉体から離れた当座の霊魂は非常に荒々しい状態であり、このような霊魂すなわち御霊は、放置すれば祟り神となり、逆に鄭重に鎮め祀ることで次第に鎮まりまして、やがて一年祭を迎える頃には子孫を守護して下さる祖霊となられ、百年祭の頃には氏神となられるのです。

特に帰幽(きゆう・身罷る事)後一年祭を迎えるまでの御霊は特に荒々しい為、鄭重に鎮め祀ることが大切です。

このことから神道に於ける神葬祭並びに祖霊祭とは魂鎮(たましず)めのお祀りであると言えます。

現世(うつしよ)に生きている者が幽世(かくりよ)の御霊を鄭重(ていちょう)にお祀りして呼応し合う事で、祖霊は子孫を見守る存在となっていくのです。

帰幽直後の御霊を神葬祭で、その後は祖霊として毎年のお盆やお彼岸と云う年中行事や式年祭(祥月命日)を通して鄭重にお祀りすることが我が国の伝統的な祖先崇拝の形です。

特に一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭以降百年毎の年祭は鄭重に祭儀を行う必要があります。

【3】人が身罷った時には産土神に奉告を

人の霊魂はその死と共に産土神社の許に帰ると云う「産土信仰」から、忌服に関わりの無い者を喪家(そうか・喪中の家)の使者として産土神社に遣わし、誰某の帰幽(死没)のことを連絡し、産土神社に於いてはその使者の参列の下に直ちに帰幽奉告の儀を執り行います。

本来は神社に奉告すべきことですが、自宅にある神棚に向かって帰幽の奉告を行うことで代えることもあります。

【4】通夜祭の意義

通夜祭は古代の葬送儀礼に於ける「殯斂(もがり)」の遺風であり、夜を徹して故人の蘇りを願う祭儀です。

命が果てた後、葬儀を執り行うまでの間、喪主以下家族・親族一同が故人の傍(かたわら)に控えて生前同様の礼を尽し、鄭重に奉仕すべき神葬祭の諸祭儀の中でも殊更に重要な祭儀であり、葬場祭(告別式)の前夜に行われます。

昨今、通夜とは単なる葬儀の前夜祭のように捉えられていますが、それは大きな間違いであり、本来の通夜祭とは故人の家族・親族一同が終夜に亘って柩の傍に集まり控えて、その面影を慕いつつ、その功績を称え偲び、再び御霊が肉体に帰り来て生命が蘇る、つまり常世(とこよ)の国もしくは黄泉(よみ)の国に行きかけた御霊が帰ってくることをひたすら祈り願う為に行われる祭儀です。

生饌(せいせん)ばかりでなく故人が生前好んだ品を御饌(みけ・常饌)として供え、誄歌(しのびうた)を奏でて故人を追慕します。

また生前、魂(こん・御霊)は霊糸線(れいしせん)によって魄(はく・肉体)と繋がっていますが、肉体が死を迎えると約24時間かけて霊糸線が切れて魂は魄から離れます。

このことから肉体の死後すぐに葬儀を行って土葬したり火葬したりせずに、通夜祭として葬儀の前に24時間置く意味は、御霊が肉体から完全に離れる為の時間が必要だと言う事です。

この霊糸線が切れる為の時間をとることなく、肉体に何らかの刺激を与える事は、たとえ見た目は死して何の感覚も無い様に思われても、当人にしてみれば生身の体同様の刺激を感じる訳ですから、大変な苦痛を与えられることになります。

ですから昨今、医療技術の進歩によって脳死と判断された場合に臓器移植が行われるようになりましたが、本来の肉体の死を迎える前に、将に生きながらにして臓器を切除されると云う耐え難い苦しみを与えられると云うことになります。

【5】遷霊祭(せんれいさい)の意義

神道に於いて非常に重要な祭儀が遷霊祭です。

遷霊祭は故人の御霊を霊璽(れいじ)・御霊代(みたましろ)に遷し留める祭儀で「移霊祭」とも称します。つまり肉体から離れた御霊を霊璽に遷し留め、後に祖霊と合祀し、祖霊祭祀の際の依代にする為に必要な祭儀です。

遷霊祭を行わない仏式の葬儀では御霊が自力で幽世に帰れなかった場合は、そのまま浮遊してしまうことになります。

霊璽に遷し留められた故人の御霊は五十日祭もしくは百日祭の頃の合祀祭が執り行われるまでは仮祖霊舎に安置され、合祀祭によって一家の祖霊舎(みたまや)に合祀・安置されることで、祖霊の中に加わり末永く家の守護神として祀られます。

御霊が遷し離された後のご遺体は程なく埋葬または火葬され、火葬された場合はご遺骨として墓所に納骨されます。

遷霊祭は神葬祭の意義を考える際に、その前後で意識が二分されると云う非常に重要な祭儀と言えます。つまり、遷霊祭に至る迄の諸祭儀には、再び御霊が帰り来て故人の生命が蘇ることをひたすら願うと云う意識が強くあることに対して、遷霊祭を行って故人の御霊を霊璽に遷し留めると云う事は、その人の死を確定する事であり、これ以降の諸祭儀はご遺体・ご遺骨を永遠の安住の地である墓所に葬る為の祭儀へと変化するのです。

遷霊祭は本来発柩(はっきゅう)に先立って、深夜に灯火を滅した浄暗裡(じょうあんり)、つまり真っ暗闇の清浄な中に斎行されるものです。

出棺が夜間に行われる場合は問題ありませんが、昨今は出棺の前夜の通夜祭に引き続いて、あるいは通夜祭の中に遷霊祭を取り入れて行われる場合が少なくありません。

神葬祭で用いられる霊璽とは仏式で言うところの位牌にあたりますが、所謂位牌とは全く異なるものであります。

霊璽には諡号(おくりな)、つまり成人男性の場合「大人(うし)」、成人女性の場合は「刀自(とじ)」などが墨書されます。

男性の場合、「大人」以外には「若子(わかひこ)・童子(わらこ)・郎子(いらつこ)・彦・老叟(おおおきな)・翁・大翁・君・命・尊」、女性の場合「刀自」以外には「童女(わらめ)・郎女(いらつめ)・大刀自・媼(おおな)・大媼・姫・媛」など死亡年齢や業績に応じた諡号が贈られることもあります。

また裏には帰幽年月日と享年を墨書します。

仏式に於ける位牌には遷霊祭を行いませんのでただの象徴ですが、霊璽は遷霊祭と云う祭儀によって単なる象徴ではなく、故人の御霊をご遺体から霊璽に遷し留めた依代(よりしろ)となります。

遷霊祭を執り行う事によって、生前は一体となっていた魂と魄が分けられ、御霊は遷し留められた霊璽によって祖霊舎で祀られ、ご遺体・ご遺骨である魄は墓所で祀られることになります。

ところで人が帰幽すると陽の気は魂(こん)となり、陰の気は魄(はく)になって、生前一体であった魂魄(こんぱく)が分離します。

「魂」と云う字は「云」と「鬼」から成っています。

「云」は雲で雲気のことを表わしており、人の魂は雲気となって浮遊すると考えられています。

死者にかける衣を魂衣とも言います。

「魄」と云う字は「白」と「鬼」から成っています。

白は髑髏(どくろ)のことで、精気を失ったものを魄と言います。

「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」(礼記)とあるように、人間が死ぬと魂魄は分離しそれぞれは天地に帰ります。 

つまり霊璽では魂を祀り、墓所では魄を祀ると言う事になります。

魂魄双方を鄭重にお祀りする事で御霊は益々鎮まり、祟りなす荒ぶる神に転じないようにしなければなりません。

陽の気である魂と陰の気である魄の双方を祀ることで陰と陽のバランスをとることになります。

【6】守護神としての祖先神

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日本人は祖先が自分達子孫を守って下さる、といった観念をごく自然に持っています。

この事が高じて、亡くなった直近の父母や祖父母が守護や指導霊として守っている、と云うようなことを霊能者や新興宗教の類の人たちが良く口にしますが、実際にはそのような守護霊・指導霊など存在しないので、これは誤った観念です。

守護神としての祖先神とはこの守護霊・指導霊と云うような架空の存在である直近の先祖の御霊が直接的に子孫を守護すると云ったことではありません。

子孫が先祖代々の祖霊を様々な鎮魂儀礼つまり春秋の祖霊祭、御霊祭(みたままつり)、年祭などを通して鄭重にお祀りする事で、次第に御霊が荒ぶる御霊である荒魂(あらみたま)から和魂(にぎみたま)に鎮まっていき、やがては幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)となり、子孫が行う儀礼と呼応して子孫を見守る守護神となっていくのです。

そして百年祭を迎える頃には、産土神(うぶすながみ)の一部となり、その産土神から再び分かれて人間として誕生するということになります。

このことから誕生の際の安産祈願から始まり、初宮、七五三、十三詣りなどの人生儀礼に際して、産土神社への奉告と健康への願いを込めた祈願をすることが慣わしとなっているのです。

生まれ出たところの本である産土神に祈願する事で、生児の霊魂が強化され、生命力がついてくると考えられています。

(参考図書並びに図は「知識ゼロからの神道入門」幻冬舎 より転載)

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