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2013年10月 8日 (火)

桔梗だより 平成25年8月号

7月の陰陽會の祭典および行事

722日 結婚感謝祭を斎行致しました。

 

 

25722

 

8月の陰陽會の祭典及び行事予定

815日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭

 

伊勢の神宮の由来()

天照大御神の御神体として、八咫鏡(やたのかがみ)がお祀りされています。しかしながら皇祖天照大神から瓊瓊杵尊に下された御神勅の中には「同床鏡殿(どうしょうきょうでん)の御神勅」により、天皇は御鏡を同じ宮殿内でお祀りするようにとあります。

「同床鏡殿の神勅」

吾(あ)が児(みこ)、此(ここ)の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさぬこと、まさに吾(われ)を視るがごとくとすべし。ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)と為(な)すべし。

(わが子よ、この鏡をご覧になる事は、私を見るのと同じであると考えよ。この鏡をお前の住む宮殿内に安置し、お祭りをなすときの神鏡にしなさい。)

つまり、御鏡の本体は現在は神宮の内宮に祀られ、天皇はそのレプリカを宮殿内でお祀りしています。

三種の神器の内、最も重要であるとされる御鏡が、何故御神勅とは異なる方法で別々にお祀りされているのでしょうか。

「古語拾遺(こごしゅうい)」によると、現在の様に本体と形代(複製品)をそれぞれ別々にお祀りするようになった理由は、神武天皇以来、同床鏡殿の御神勅の通り、歴代天皇は同じ宮殿内で御鏡をお祀りしていたところ、第十代崇神天皇の御代に、天変地異、疫病が頻発したことで、天照大神の神威を恐れて不安となられ、朝廷で祭祀を担っていた斎部(忌部・いんべ)氏に三種の神器の内、鏡と剣の形代(複製品)を作らせ、本体ではなくこの形代が護身の璽(しるし)として宮中でお祀りされ、踐祚(せんそ)の際には皇位継承の璽になりました。

そして本体である御鏡と御剣は皇女、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が御杖代(みつえしろ)となられ、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)[神の降臨の場所として特別に作ったところ]を作り、お祀りしました。更に第十一代垂仁天皇の御代になって、その皇女、倭姫(やまとひめ)を御杖代として、御鏡と御剣をお祀りするのにより相応しい御鎮座の地を求めて、大和・笠縫邑から伊賀、近江、美濃と旅を続けられ、やがて伊勢後に辿り着いた時、

  是の神風(かむかぜ)の伊勢国は、
 
  常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
 
  傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり。
 
  是の国に居らむと欲(おも)ふ。
 
(この〔神風の〕伊勢国は、海のかなた常世国からの波がしきりに押し寄せる国、大和国の傍らにある素晴らしい国である。私はこの国に居ようと思う)
 
という御神託が下り、ついにこの地に鎮座しました。

垂仁天皇二十六年のことと伝わっています。

天照大御神の御形代である、三種の神器の一つ「八咫鏡」を御神体としてお祀りすることになりました。
 
伊勢の神宮の起源は大体は右のような件(くだり)ですが、実のところははっきりと分かっておらず、その起源については今も尚、様々な憶測を呼んでいます。

七一二年に成立した古事記には伊勢神宮の起源は特に書かれていません。七二〇年に成立した日本書記には外宮の起源については書かれていません。

ところで倭姫が笠縫邑から伊勢の地に至る迄の間、御鏡の鎮まる場所を探し求めたと云う事については、神道五部書(鎌倉時代成立)の倭姫世紀に書かれています。

また、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに、天照大御神の御神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれています。

伊勢の地で天照大御神をお祀りする最初の皇女で、これが後に制度化されて、現在までも続く斎宮となりました。

斎宮(さいぐう・さいくう・いつきのみや・いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所のことを指しましたが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別する為、斎王のことも指すようになりました。斎王は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称します。

先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王または女王から候補者を選び出し、亀卜(きぼく・亀の甲を火で焙って出来たひびで判断する卜占(ぼくせん))により新たな斎宮を定めることを卜定(ぼくじょう)と云います。新斎宮が決定すると、邸に勅使(ちょくし)が訪れて斎宮卜定を告げ、伊勢神宮にも奉幣使(ほうへいし)が遣わされて、斎宮はただちに潔斎(けっさい)に入ります。

斎宮は普段は伊勢神宮から約二十キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)の寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に三度、「三時祭(さんじさい)」(六月・十二月の月次祭と九月の神嘗祭。三節祭とも言う。)に限って神宮へ赴き祭儀を奉仕されました。

ところで剣についてですが、後に倭姫命の甥王にあたる倭建命(やまとたけのみこと)が東夷の討伐に向かう折りに、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)をお与えになりました。この天叢雲剣は須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇(八俣遠呂智・ヤマタノオロチ)の尾から出てきた太刀のことで、天叢雲という名前は、八岐大蛇の頭上に常に雲気が掛かっていた為、このように呼ばれました。

倭建命が倭姫命から伊勢神宮で天叢雲剣を拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の別名を与えました。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残っています。

倭建命は東征の後、尾張国で結婚した美夜受比売(宮簀媛・みやずひめ)の元に草薙剣を預けたまま、伊吹山の悪神を討伐しに行きましたが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまいました。後に美夜受比売は草薙剣をお祀りする為に熱田神宮を創建され、現在まで草薙剣は熱田神宮でお祀りされています。

(ウィキペディア参照)(次号に続く)

 

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