桔梗だより 平成25年9月号
8月の陰陽會の祭典および行事
8月15日日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭を斎行致しました。
9月の陰陽會の祭典及び行事予定
9月9日 重陽の節句・重陽祭
9月17日 敬老祭
9月23日 例大祭・晴明桔梗まつり
伊勢神宮の変遷 (一)
現在、伊勢神宮境内は杉の大木に覆われています。
そのことで神宮の境内は鬱蒼とした杉林の厳かな空気、つまり「神域」と云う空気感で満たされています。
しかしながらこの杉の大木は当初からあったものではなく、中世鎌倉時代以降に植林されたものです。
それ以前、古代にあっては神域はシイ・カシ・クスなどの亜熱帯性樹林に覆われていました。ま
た式年遷宮の諸行事の内、民間人が唯一御正殿前に入ることを許されるお白石持行事は、御正殿の敷地に「お白石」を敷き詰める行事ですが、この行事は室町後期頃から始まったとされています。
青々とした杉林の林立する中に、真っ白な玉砂利を敷き詰める事で、そのコントラストが、素朴な茅葺、白木の掘立柱のお宮を一層引き立てて美しさを際立てています。
伊勢神宮のたたずまいは、古代からずっと変わる事無く今日に伝わっていると云う「神話」が信じられています。
けれども歴史を紐解けば、現代の姿になるまでには、色々と変遷があったようです。
ところで「式年遷宮」では全てのお宮を立て替えて、新しくしますが、これは神道の考え方に由来しています。
仏教による寺や仏像は古ければ古いものに価値を見出しますが、神社では真逆で、古いものは穢れが生じると考え、新しいものに価値を見出します。ですから神社でお頒かち頂いた御札や御守は、年末に古札お納め所に納め、新年には新しい御札や御守をお頒かち頂きます。また神棚など古くなった場合は、「神棚毀(こぼ)ち」の祭儀をした後、新しい神棚を「神棚奉斎」の祭儀を神職に依頼してお祀りします。
これは神道で言うところの「常若(とこわか)」と云う考え方です。
常若とは文字の如く常に若々しく、清新で溌剌としている状態を言います。
そして式年遷宮の様に古来から同じ形態がずっと続いていく状況、つまり「今」は過去と未来を繋ぐ中心であると云う、時間の連続性の事を「中今(なかいま)」と言います。中今とは時の流れの中で今、この瞬間が中心であり、その「今」は永遠に繋がっていると云う考え方です。
式年遷宮は神道の「常若」と「中今」と云う精神を、建築物を通して、視覚的に非常に分かり易く感じさせてくれているのです。
皇祖神であられる天照大神をお祀りする神宮を、基本的には二十年毎にすべて新しく造り替えることで、永遠に続く皇統の連続性を示すと共に、常に若々しく清新で活力に溢れている事、つまり天照大御神のご存在を活性化させ、同時に皇統の権威を高め、天皇の存立基盤を盤石にすることをも期待されたと云えます。
第一回の式年遷宮は天武天皇の皇后であられた女帝・持統天皇が即位された後に行われました。
ところで天武天皇以前までは、天皇ではなく大王(おおきみ)或いは治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号で呼ばれていました。
天武天皇は支那大陸から入ってきた道教を取り入れ、日本に古来から存在していた古神道(敬神崇祖)を融合させて、陰陽道を作り上げ、天武天皇御自らが陰陽道を駆使したと言われています。日本初の天文台「占星台」を作り、天文道を治世に活かしました。
後に安倍晴明公は陰陽寮の天文博士として、辣腕を振るいました。
更に天武天皇はそれまでの大王と云う称号を改め、道教で宇宙の最高神とされる「天皇大帝(てんこうたいてい)」から、「天皇(てんのう)と云う称号を用いました。
そして新嘗祭を国家祭祀に引き上げ、一代一回限りの大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)を制定するなど、現代まで伝わる宮中祭祀のほとんどは、天武天皇の御世に陰陽道による祭祀として執り行われてきました。
天武天皇は日本古来の神祭りを重視され、地方で行われていた祭祀の一部を国家祭祀に引き上げるなどして神道の振興に力を注がれました。
これは支那大陸や朝鮮半島から流入してくる外来文化の浸透に対抗する為、日本の民族意識を高揚させる為であったと言われています。
更に天照大神を皇祖神とする皇室との関係に各地の神々を位置付けることで、体系化して取り込み、天皇の権威の強化に向けられたと考えられます。
元々それぞれの地元でお祀りされていた各地の神社や祭祀を保護することと引き換えに国家の管理下に置き、古代の国家神道が形成されていきました。
その際に、伊勢神宮を特別に重視し、神宮が日本の最高位の神社とされる道筋をつけたのでした。
参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」
武澤秀一著
(次号に続く)
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