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2013年10月

2013年10月26日 (土)

桔梗だより 平成25年9月号

8月の陰陽會の祭典および行事

815日日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭を斎行致しました。

 

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9月の陰陽會の祭典及び行事予定

99日  重陽の節句・重陽祭

917日  敬老祭

923日  例大祭・晴明桔梗まつり

伊勢神宮の変遷 ()

 

現在、伊勢神宮境内は杉の大木に覆われています。

そのことで神宮の境内は鬱蒼とした杉林の厳かな空気、つまり「神域」と云う空気感で満たされています。

しかしながらこの杉の大木は当初からあったものではなく、中世鎌倉時代以降に植林されたものです。

 

それ以前、古代にあっては神域はシイ・カシ・クスなどの亜熱帯性樹林に覆われていました。ま

た式年遷宮の諸行事の内、民間人が唯一御正殿前に入ることを許されるお白石持行事は、御正殿の敷地に「お白石」を敷き詰める行事ですが、この行事は室町後期頃から始まったとされています。

青々とした杉林の林立する中に、真っ白な玉砂利を敷き詰める事で、そのコントラストが、素朴な茅葺、白木の掘立柱のお宮を一層引き立てて美しさを際立てています。

 

伊勢神宮のたたずまいは、古代からずっと変わる事無く今日に伝わっていると云う「神話」が信じられています。

けれども歴史を紐解けば、現代の姿になるまでには、色々と変遷があったようです。

 

ところで「式年遷宮」では全てのお宮を立て替えて、新しくしますが、これは神道の考え方に由来しています。

仏教による寺や仏像は古ければ古いものに価値を見出しますが、神社では真逆で、古いものは穢れが生じると考え、新しいものに価値を見出します。ですから神社でお頒かち頂いた御札や御守は、年末に古札お納め所に納め、新年には新しい御札や御守をお頒かち頂きます。また神棚など古くなった場合は、「神棚毀(こぼ)ち」の祭儀をした後、新しい神棚を「神棚奉斎」の祭儀を神職に依頼してお祀りします。

 

これは神道で言うところの「常若(とこわか)」と云う考え方です。

常若とは文字の如く常に若々しく、清新で溌剌としている状態を言います。

 

そして式年遷宮の様に古来から同じ形態がずっと続いていく状況、つまり「今」は過去と未来を繋ぐ中心であると云う、時間の連続性の事を「中今(なかいま)」と言います。中今とは時の流れの中で今、この瞬間が中心であり、その「今」は永遠に繋がっていると云う考え方です。

 

式年遷宮は神道の「常若」と「中今」と云う精神を、建築物を通して、視覚的に非常に分かり易く感じさせてくれているのです。

 

皇祖神であられる天照大神をお祀りする神宮を、基本的には二十年毎にすべて新しく造り替えることで、永遠に続く皇統の連続性を示すと共に、常に若々しく清新で活力に溢れている事、つまり天照大御神のご存在を活性化させ、同時に皇統の権威を高め、天皇の存立基盤を盤石にすることをも期待されたと云えます。

 

第一回の式年遷宮は天武天皇の皇后であられた女帝・持統天皇が即位された後に行われました。

 

ところで天武天皇以前までは、天皇ではなく大王(おおきみ)或いは治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号で呼ばれていました。

天武天皇は支那大陸から入ってきた道教を取り入れ、日本に古来から存在していた古神道(敬神崇祖)を融合させて、陰陽道を作り上げ、天武天皇御自らが陰陽道を駆使したと言われています。日本初の天文台「占星台」を作り、天文道を治世に活かしました。

 

後に安倍晴明公は陰陽寮の天文博士として、辣腕を振るいました。

 

更に天武天皇はそれまでの大王と云う称号を改め、道教で宇宙の最高神とされる「天皇大帝(てんこうたいてい)」から、「天皇(てんのう)と云う称号を用いました。

 

そして新嘗祭を国家祭祀に引き上げ、一代一回限りの大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)を制定するなど、現代まで伝わる宮中祭祀のほとんどは、天武天皇の御世に陰陽道による祭祀として執り行われてきました。

 

天武天皇は日本古来の神祭りを重視され、地方で行われていた祭祀の一部を国家祭祀に引き上げるなどして神道の振興に力を注がれました。

これは支那大陸や朝鮮半島から流入してくる外来文化の浸透に対抗する為、日本の民族意識を高揚させる為であったと言われています。

 

更に天照大神を皇祖神とする皇室との関係に各地の神々を位置付けることで、体系化して取り込み、天皇の権威の強化に向けられたと考えられます。

 

元々それぞれの地元でお祀りされていた各地の神社や祭祀を保護することと引き換えに国家の管理下に置き、古代の国家神道が形成されていきました。

 

その際に、伊勢神宮を特別に重視し、神宮が日本の最高位の神社とされる道筋をつけたのでした。            

 

参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」

武澤秀一著 

(次号に続く)

2013年10月23日 (水)

七五三

http://t0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQh3PWwzCoeDnRhO1A2nWYzNnj1P2gUSvgEn0s9w5RV9b7k3hy0jg七五三詣

七五三詣は1115日前後に五歳の男児や三歳・七歳の女児がお宮参りし、

健やかな成長を祈る神事です。

古くは三歳の「髪置(かみおき)」(それまで剃っていた髪を伸ばし始める)、

五歳の「袴着(はかまぎ)」(初めて袴を着ける)、

七歳の「帯解(おびとき)」(小袖に縫付けられていた紐を取り、

初めて帯を締める)という習俗がありましたが、

これらは貴族や武家というごく限られた階層の間で行われていたものでした。

やがて時代が下ると共にこれが各層に広まり、

江戸時代末には1115日前後に七五三詣として神社に参詣する風習が定着しました。

陰暦の1115日は十五夜で、

霜月祭と云う最も大切な収穫感謝祭の望月(満月)に当たります。

この日に神様から授かった幼い生命を神様にご覧に入れるのは

大層意義深い事と言えます。

陰陽會では七五三詣でお子様の今までの成長を感謝し、

益々の健やかなご成長とご多幸をご祈願いたします。

初穂料・・・1万円

授与品・・・御神札・御守・七五三詣神矢・千歳飴

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準備の都合上、祭典のお申込みはご希望日の一か月以上前にお願い致します。



2013年10月 8日 (火)

桔梗だより 平成25年8月号

7月の陰陽會の祭典および行事

722日 結婚感謝祭を斎行致しました。

 

 

25722

 

8月の陰陽會の祭典及び行事予定

815日 戦没者慰霊と世界平和祈願祭

 

伊勢の神宮の由来()

天照大御神の御神体として、八咫鏡(やたのかがみ)がお祀りされています。しかしながら皇祖天照大神から瓊瓊杵尊に下された御神勅の中には「同床鏡殿(どうしょうきょうでん)の御神勅」により、天皇は御鏡を同じ宮殿内でお祀りするようにとあります。

「同床鏡殿の神勅」

吾(あ)が児(みこ)、此(ここ)の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさぬこと、まさに吾(われ)を視るがごとくとすべし。ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)と為(な)すべし。

(わが子よ、この鏡をご覧になる事は、私を見るのと同じであると考えよ。この鏡をお前の住む宮殿内に安置し、お祭りをなすときの神鏡にしなさい。)

つまり、御鏡の本体は現在は神宮の内宮に祀られ、天皇はそのレプリカを宮殿内でお祀りしています。

三種の神器の内、最も重要であるとされる御鏡が、何故御神勅とは異なる方法で別々にお祀りされているのでしょうか。

「古語拾遺(こごしゅうい)」によると、現在の様に本体と形代(複製品)をそれぞれ別々にお祀りするようになった理由は、神武天皇以来、同床鏡殿の御神勅の通り、歴代天皇は同じ宮殿内で御鏡をお祀りしていたところ、第十代崇神天皇の御代に、天変地異、疫病が頻発したことで、天照大神の神威を恐れて不安となられ、朝廷で祭祀を担っていた斎部(忌部・いんべ)氏に三種の神器の内、鏡と剣の形代(複製品)を作らせ、本体ではなくこの形代が護身の璽(しるし)として宮中でお祀りされ、踐祚(せんそ)の際には皇位継承の璽になりました。

そして本体である御鏡と御剣は皇女、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が御杖代(みつえしろ)となられ、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)[神の降臨の場所として特別に作ったところ]を作り、お祀りしました。更に第十一代垂仁天皇の御代になって、その皇女、倭姫(やまとひめ)を御杖代として、御鏡と御剣をお祀りするのにより相応しい御鎮座の地を求めて、大和・笠縫邑から伊賀、近江、美濃と旅を続けられ、やがて伊勢後に辿り着いた時、

  是の神風(かむかぜ)の伊勢国は、
 
  常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
 
  傍国(かたくに)の可怜国(うましくに)なり。
 
  是の国に居らむと欲(おも)ふ。
 
(この〔神風の〕伊勢国は、海のかなた常世国からの波がしきりに押し寄せる国、大和国の傍らにある素晴らしい国である。私はこの国に居ようと思う)
 
という御神託が下り、ついにこの地に鎮座しました。

垂仁天皇二十六年のことと伝わっています。

天照大御神の御形代である、三種の神器の一つ「八咫鏡」を御神体としてお祀りすることになりました。
 
伊勢の神宮の起源は大体は右のような件(くだり)ですが、実のところははっきりと分かっておらず、その起源については今も尚、様々な憶測を呼んでいます。

七一二年に成立した古事記には伊勢神宮の起源は特に書かれていません。七二〇年に成立した日本書記には外宮の起源については書かれていません。

ところで倭姫が笠縫邑から伊勢の地に至る迄の間、御鏡の鎮まる場所を探し求めたと云う事については、神道五部書(鎌倉時代成立)の倭姫世紀に書かれています。

また、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに、天照大御神の御神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれています。

伊勢の地で天照大御神をお祀りする最初の皇女で、これが後に制度化されて、現在までも続く斎宮となりました。

斎宮(さいぐう・さいくう・いつきのみや・いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所のことを指しましたが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別する為、斎王のことも指すようになりました。斎王は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称します。

先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王または女王から候補者を選び出し、亀卜(きぼく・亀の甲を火で焙って出来たひびで判断する卜占(ぼくせん))により新たな斎宮を定めることを卜定(ぼくじょう)と云います。新斎宮が決定すると、邸に勅使(ちょくし)が訪れて斎宮卜定を告げ、伊勢神宮にも奉幣使(ほうへいし)が遣わされて、斎宮はただちに潔斎(けっさい)に入ります。

斎宮は普段は伊勢神宮から約二十キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)の寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に三度、「三時祭(さんじさい)」(六月・十二月の月次祭と九月の神嘗祭。三節祭とも言う。)に限って神宮へ赴き祭儀を奉仕されました。

ところで剣についてですが、後に倭姫命の甥王にあたる倭建命(やまとたけのみこと)が東夷の討伐に向かう折りに、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)をお与えになりました。この天叢雲剣は須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇(八俣遠呂智・ヤマタノオロチ)の尾から出てきた太刀のことで、天叢雲という名前は、八岐大蛇の頭上に常に雲気が掛かっていた為、このように呼ばれました。

倭建命が倭姫命から伊勢神宮で天叢雲剣を拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の別名を与えました。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残っています。

倭建命は東征の後、尾張国で結婚した美夜受比売(宮簀媛・みやずひめ)の元に草薙剣を預けたまま、伊吹山の悪神を討伐しに行きましたが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまいました。後に美夜受比売は草薙剣をお祀りする為に熱田神宮を創建され、現在まで草薙剣は熱田神宮でお祀りされています。

(ウィキペディア参照)(次号に続く)

 

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