最近のトラックバック

最近のコメント

2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2013年10月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年11月

2013年11月28日 (木)

桔梗だより 平成25年11月号

10月の陰陽會の祭典および行事

102日 伊勢神宮 遷御の儀 遥拝式

1017日 神嘗祭遥拝式を斎行致しました。

      十三夜祭を斎行致しました。

251017_001
十三夜祭

1020日 皇后陛下御誕辰祭を斎行致しました。

1020日 恵比寿祭を斎行致しました。

 

11月の陰陽會の祭典及び行事予定

113日  明治祭

1123日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭

伊勢神宮の変遷 ()

 

天武天皇は今まで王権が替わる毎に建て替えられていた王宮を、恒久の都を築くことで永代の宮(藤原宮)にしようとしました。しかしながら天武天皇は藤原宮の完成を見ることなく崩御、皇后である持統天皇が即位して、都の完成は持統天皇へと引き継がれました。

 

持統天皇四年(六九〇年)正月、皇后が即位して持統天皇が御位(みくらい)に就かれたこの年に、第一回伊勢神宮式年遷宮が挙行されました。そして天武天皇崩御で中断していた藤原京の工事は翌年には再開。式年遷宮の開始と藤原京の建設が同時進行しています。

 

今迄の王宮は板葺(いたぶき)か檜皮葺(ひわだぶき)でしたが、藤原宮は瓦葺で礎石の上に柱が乗ると云う、恒久的な造りになっていました。

 

また王宮だけでなく、藤原京は碁盤目状都市と云う恒久的な配置になっていました。つまり宮も京も他に遷都する事を想定していなかったと言えます。

 

そしてこのような恒久的な宮や京の在り方は、権力安定化の基礎を作り、その継続性に適していました。しかし一方では、従来の感覚から言えば、歴代遷宮がもたらす「天皇の権威」が新しくなる時の「更新と活性化」と云う意味合いを失うものでもありました。つまり「安定化」に伴う「活力低下」の恐れです。

 

このことを補う代替策として、皇祖神をお祀りする伊勢神宮の「式年遷宮」が始まったと考えられます。

 

つまり今までの「歴代遷宮」を引き継ぐ形で「神宮遷宮」が行われるようになった、と云う事です。

 

ところで伊勢神宮内宮の御祭神は天照大御神だとされています。その理由は次の通りです。

 

天孫降臨の際、天照大御神が天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に三大神勅、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅・宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅・斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅を下されますが、この中の宝鏡奉斎の神勅に基けば、天皇は宝鏡(三種の神器の一つである八咫の鏡)を殿内(宮中)に奉斎すべし、と下されました。ところが第十代崇神天皇の御代に、疫病の蔓延によって数多くの死者が出た事で、御鏡の神威を畏れて宮中の外にお祀りする事にし、そのレプリカを宮中で奉斎する事にしました。そこで御鏡が鎮まる場所が最終的に現在の伊勢となり、そこに宮を創建して伊勢神宮となったわけです。これが伊勢神宮内宮の御祭神が天照大御神であるとされる所以です。

 

皇祖神をお祀りする伊勢神宮は皇祖のご存在を明らかにすると共にその神威を象徴しています。皇孫としての天皇が自らの権威を保ち続けるには、皇統の原点である皇祖を恭しく鄭重にお祀りし、皇祖が常に活き活きと輝いているご存在であられねばなりません。

 

其の為には皇祖神を象徴する神宮は、神道の「常若(とこわか)」の精神で貫かれ、常に清々しく生気に満ち溢れていなければなりません。寺院の様に古い程価値を見出す建物では、古くなるほど劣化して新鮮さ、瑞々しさ、活力を感じさせる事が出来ません。また、古くなればなるほど、「穢れ→気枯れ→生命力を失う」が生じるとする「神道」の考え方にも馴染みません。

 

そこで建て替えを前提とした社殿にして、ある程度の年月が経過して痛みが出て清浄を欠く前に新しい社殿にお遷り頂く、という形式を考え出したと云う事でしょう。一定の年月で建て替えをすることで、皇祖神の御社は生命力を取り戻し、皇孫としての天皇の権威も一層輝きを取り戻すと云う事になります。

 

天皇の代替わりの度に行われ、権威の不安定さをもたらしていた歴代遷宮は恒久の都・宮にすることで安定性を確保し、その代わりに皇祖神をお祀りする伊勢神宮を一定の年月で建て替えすることで、恒久化したことで失われた「リセット(活力を取り戻す)」による権威の更新が担保されることになったと考えられます。

 

天武天皇から持統天皇へと引き継がれた藤原京と云う恒久の都が築かれるまでは、次の大王(おおきみ)は群臣による協議を経ての推挙に委ねられていた為、大王であっても次の代の決定に際して主導権を発揮する事は難しい事でした。

 

けれども天武天皇の勅命で編纂が始まったとされる古事記や日本書紀によって皇祖神から連綿とつながる皇統が明らかにすることで、日本の統治者としての正統性を確立させ、持統天皇の御代に始まった伊勢神宮の式年遷宮によって「皇孫」としての天皇の御位は「皇祖」によって根拠付けられる様になりました。

 

それまでの代替わり毎にリセットされていた歴代遷宮の不安定さから脱して、廿年毎に繰り返される式年遷宮によって、皇統の安定化を目指したと言えます。

 

天武天皇によってそれまでの「大王」と云う称号から「天皇」、つまり「天皇大帝(てんおうだいてい)=北極星(天帝)=神」と云う称号に改めたと伝えられています。天皇は近年言われているような「祭祀王」などではなく、「北極星の化身=神」であり、「現人神」そのものであられます。

 

何故なら同じく天武天皇から始められた「大嘗祭(新しく天皇の御位に就かれた時に行われる一代一度の祭儀)」によって、天帝となられるからです。大嘗祭は陰陽道による秘儀なのです。

 

大嘗祭では北斗と南斗に対して祭祀が行われます。北斗は天帝と同一視される太一(すなわち北極星)の周囲を回る天帝の車であり、南斗は廟に見立てられ、祖先に供物を捧げる升と観念されています。

 

このことは天の祭祀と祖先への祭祀と云う形で成り立っていた支那の皇帝の即位儀礼と共通していますが、天皇が「太一(北極星)=天照大神=天皇」と捉えられ、祀る者であると同時に祀られる対象であることに対して支那の皇帝は「太一=天帝=皇帝」として天下に君臨し支配する権威を天から与えられる「天子」であり、あくまで最高司祭者として祭る者に留まっていました。

 

先にも述べたように、このことから天皇は「祭祀王」ではなく、「現人神」であられるのです。

 

以上の様に、天武天皇以降、記紀編纂によって皇祖神と皇孫の関係から万世一系と云う皇統を明確にし、歴代遷宮から伊勢神宮の式年遷宮に切り替え、天皇の称号と共に陰陽道による秘儀によって北極星の化身となり、名実ともに日本を統治されるに相応しい実効性を発揮されることになりました。        (次回に続く)

参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」武澤秀一著

2013年11月24日 (日)

新嘗祭の本義

1123日は戦後、勤労感謝の日とされ、

其の本義を知る人が少なくなってしまいました。

勤労感謝の日とは、元々は宮中祭祀の一つである新嘗祭の祭日でした。

 

しかし、新嘗祭とは一体如何なるものなのかを国民の多くは知りません。

 

大方の国民は新嘗祭=収穫感謝祭との理解をしているようですが、

実はもっと壮大な祭儀であることを理解して頂きたいと思います。

 

1123日、宮中をはじめ全国津々浦々の神社で新嘗祭が斎行されています。

 

天皇陛下は宮中でこの年の新穀を

皇祖神天照大神をはじめ天神地祇に献じて収穫を感謝され、

神々と共食する新嘗祭を御親祭されます。

 

新嘗祭は春の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり)に対応する

最も重要な祭儀です。

宮中祭祀の中でも古代から連綿と継承されてきた唯一の祭祀とされています。

 

斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅

「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」

 

Photo

古代から全国の稲米の作られる所では全て新穀のお祭りが行われてきました。

日本人は稲作の折目節目に神々をお祭りし、米作りを行ってきたのです。

一般にあっては其の神々に感謝する最も重要なお祭りが新嘗祭です。

 

7世紀の天武天皇の時代まで毎年の新嘗祭も大嘗祭と呼ばれるなどして

区別なく用いられていましたが、

天武二年(673)から、毎年の新嘗祭と区別して、

即位に伴う一代一度の大嘗祭のみを「大嘗祭・践祚大嘗祭」と呼ぶようになりました。

 

宮中では新嘗祭に先立ち、前日の22日夜、

鎮魂祭が綾綺(りょうき)殿にて執り行われます。

 

鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)とは、

宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う祭儀です。

鎮魂祭では天皇の「鎮魂・みたましずめ」「魂振・みたまふり」の秘儀が執り行われます。

 

鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていました。

この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、

また一年間、御稜威を垂れ給いた天皇の霊威は冬が近付くにつれて

冬の陽光の様に衰えてきます。

鎮魂祭は活力が衰える事で肉体から遊離しようとする魂を招き寄せ、

玉体深くに鎮めて、その霊威を復活させる秘儀です。

 

鎮魂祭は初代神武天皇の御時に

物部氏の祖、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が

十種神宝(とくさのかむだから)を以って、

天皇の鎮魂をしたのが始まりです。

 

この祭儀に天皇陛下のお出ましはありません。

この日は掌典職(しょうてんしょく 宮中祭祀を担当する部門)によって

綾綺殿(りょうきでん)に祭場を設けられ、

玉体の守護神である神々をお迎えして掌典長以下が祭儀を奉仕し、

ご神饌(しんせん・お供え)をお供えして鎮魂祭が執り行われます。

 

鎮魂祭は天皇の御玉緒(たまのお)に対する「鎮魂(みたましずめ)」と

御衣(おんぞ)に対する「魂振(みたまふり)」の秘儀が中心となっています。

 

「鎮魂」は玉体から遊離した天皇の御魂(みたま)を玉体に鎮め納める秘儀であり、

「魂振」は玉体に鎮め納められた御魂を振起して、

霊威を蘇らせ、復活させる秘儀であります。

 

鎮魂祭は大直日神(おおなおびのかみ)と

天皇守護の八神、神産日(かみむすびのかみ)・高御産日神(たかみむすびのかみ)・

玉積産日神(たまつめむすびのかみ)・生産日神(いくむすびのかみ)・

足産日神(たるむすびのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・

御食津神(みけつかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ)をお奉りします。

 

鎮魂の儀では誓槽(うきふね)と呼ばれる箱を伏せ、

その上に女官が乗って桙(ほこ)で

槽の底を10回突く「誓槽の儀」が行われます。

これは神話岩戸の場面に於いて

天鈿女命(あめのうずめのみこと)が

槽に乗って舞ったという伝承に基づくとされています。

 

鎮魂の儀の後、柳筥(やないばこ)に納められた

天皇の御衣を左右に10回振る魂振の儀が行われます。

これは饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神より下された

十種神宝(とくさのかむだから)を用いた秘儀に由来します。

 

鎮魂祭は鎮魂と魂振によって

翌日の新嘗祭(又は大嘗祭)と云う重要な祭儀に臨まれるにあたり

天皇の霊威・活力を最高度に高める為に執り行わるという意味合いもあります。

 

新嘗祭は天皇が斎主(いわいぬし)となられて、

神嘉殿(しんかでん)にて御親祭になります。

 

神々にお供えする御神饌の主な物は

米と粟の御飯(おんいい・蒸し飯)・御粥(みかゆ・炊き飯)、

それに新米で醸した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の御神酒です。

 

副食として、生魚四種・干魚四種・菓子(くだもの)四種・

その他汁着(しるづけ・煮付物)・熱羮(あつもの・吸い物)があります。

 

祭儀は庭燎(にわび)が燃える浄闇(じょうあん)の中、

「夕(よい)の儀」(悠紀殿の儀)(午後6時)と

「暁(あけ)の儀」(主基殿の儀)(午後11時)の

2回に亘って斎行されます。

 

天皇は采女(うねめ)二人の介添えによって全ての祭儀を行われます。

お一人で本殿に進まれ、神座と相対して御座に正座され、

「お手水」の後、ご神饌を神々へ共進されます。

これを「神善御親供(しんぜんごしんぐ)」と言います。

 

古代そのままに竹折箸を用いて

柏の葉で作られた葉椀(くぼて)の中の御神饌を葉盤(ひらて)に盛り

約二時間近くかけて神々へ供えられます。

 

天皇は此の後拝礼して「御告文(おつげぶみ)」を奏上され

新穀の豊穣を感謝し、皇室・国家・国民の繁栄を祈願されます。

 

その後、新嘗祭の眼目である「御直会(おなおらい)」が始まります。

これは天皇が神々と共食される祭儀で、

先ず三度拍手の後「オオ」と唱えられ、

すこぶるご低頭されて頂戴されます。

 

最初に御飯を三箸食され、

次に同様の作法をされて白酒四度、黒酒四度、

その度に杯を換えられます。

 

天皇はこの神人共食の祭儀によって神々の霊と一体化し、

天皇の霊威、活力が力強く蘇り、再生するのです。

 

天皇の霊威、活力が蘇ることで国家の再生が為されると云う事なのです。

従って単なる収穫感謝の意味合いではなく

国家の再生を目的とした祭儀であることを考えるべきであります。

 

全ての祭儀が斎了するのは24日の午前1時を過ぎた頃です。

参考文献

「日本神道入門」 日本文芸社

 ウィキペディア 

2013年11月13日 (水)

樹木伐採奉告祭

樹木にも魂(木霊)が宿ります。

庭木などの植栽30年以上の樹木を伐採する時には
祟りや禍(わざわい)などの枉津日(まがつい)が起きないように
樹木伐採前に樹木伐採奉告祭を執り行います。

また30年を経ていなくても、木霊が宿る場合があります。

松を伐採する際には特に注意が必要です。

樹木の伐採を為さる前に、是非御相談下さい。

丁寧に祭儀を執り行うことで、樹木伐採による祟りや禍を遠ざけると共に、
心晴れやかに日々をお過ごし頂けますようご祈念申し上げます。

初穂料・・・3万円

☆基本的には出張祭典にて執り行います。
出張祭典の際、遠方の場合は交通費(神祭具送料含む)
又はガソリン代(高速代含む)をお納め頂きます。

☆但し、出張祭典が無理な場合は遠隔にても執り行います。
その際は、伐採する樹木の枝(1㎝太さの枝を5~10㎝)をお送り頂きます。
また御神饌
(ごしんせん)料として別途5千円をお納め下さい。

H23713_005


H23713_004


2013年11月 8日 (金)

霊符

陰陽道の呪法で欠かせないのが霊符です。

霊符を屋敷内の各所に貼る事で、様々な霊的現象から屋敷を鎮め、護るものです。

また各種御祈願を補強する意味合いで、様々な霊符を用います。

当会の霊符は陰陽道の方術によって強大な呪力を封じた護符です。

当会でお頒かちする霊符の呪力は、天災から人災に至る迄あらゆる禍を退け、邪鬼を祓い、病魔を退散させたり、国家の運命すら左右させる験(しるし)があります。

屋敷内に貼ったり、所持するなどして御祭神のご加護を頂いて下さい。

 

ご依頼によって最も相応しい霊符を調製致します。

一年間所持された古い霊符は神社の古神札お納め所にお納めになり、新年には新しい霊符をお求め下さい。

霊符は、一体々々調製致しますので、1週間程度お時間を頂く場合がございますので予めご了承下さい。

 

初穂料1体・・・3千円 (サイズ…縦15㎝×横8㎝)

 

※ケースにより、初穂料が異なる場合がございます。

 

【霊符の一例】

病を鎮める・訴訟・鎮宅(屋敷内に起きる怪事を鎮める)・子授け・合格・破産を防ぐ・良縁・出世など多岐に亘る内容で調製いたします。

001

2013年11月 6日 (水)

ご入会ご希望の皆様へ

陰陽道 陰陽會にご入会ご希望の方は、以下のご説明をお読み頂いた上、
入会申込書希望と件名に必ず書いて、氏名・ご住所・電話番号をご記入の上
メールをお送り下さい。

追って、入会申込書・必要事項をメールにてお送り致します。

陰陽道 陰陽會

平安の大陰陽師、安倍晴明公の秘術が今ここに蘇る!

Abeno_seimei_2

【遠隔での清祓も可能です】

359-0025 埼玉県所沢市上安松557-3

℡ 090-9108-9982 FAX 04-2998-7599

URL http://onmyoukai.cocolog-nifty.com/blog/

E-mail onmyonokami@yahoo.co.jp

当会は政治団体・宗教団体ではございません。

 

【安倍晴明公 御神勅】

国家存亡の国難にあたり、萬難を排し、國體の明徴と国威の発揚に邁進せよ

紀元2665年、平成17年乙酉長月23

御祭神 安倍晴明公

 

安倍晴明公は平安時代の最も有名な陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖であります。

 

平安時代、最先端の呪術・科学であった天文道や方術(ほうじゅつ)などの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいきました。

 

御祭神であられる安倍晴明公に、皆様のご祈願をお取次ぎしています。

 

【陰陽頭 舊事希軍】

 

陰陽頭(おんみょうのかみ)舊事希軍(くじまれとき)は、安倍晴明公同様に生まれながらにして比類なき才能の頭角を顕し、百鬼夜行(憑依霊、物の怪等)の姿を察知して即座にその禍を防ぎ、また天の怪しき兆しを視て、人々に降り懸かるであろう悪しき気配を逸早く見抜いてそれを封じ、安泰に過ごせるよう日夜方術を施しています。平安時代に安倍晴明公の一番弟子として活躍し、晴明公の陰陽道の秘術、方術の全て体得し、現代に全ての記憶を持って転生しました。かつて晴明公が京都の一条戻り橋に式神を隠していたという記述がありますが、舊事希軍もまた同様に式神を駆使して方術を施しております。

 

【陰陽道とは?】

 

陰陽道とは日本古来の古神道と支那由来の陰陽五行説を融合させて、呪術と科学が表裏一体となった、我が国独自の論理体系であり原理システムです。

 

また近代科学に於いては分断された呪術と科学と云う二律背反する概念を、表裏一体のものとしてとらえたものが陰陽道であるとも言えます。

 

天武天皇が675(天武4)年に陰陽寮を創設されてから明治政府によって正式に廃止されるまで、約千五百年に亘って天皇の宮中祭祀はそのほとんどが陰陽道によるものでした。

 

陰陽師の役割は治世の安定並びに国家の平安にあり、国家の安定の延長線上に人々の平和な生活の維持実現がありました。

 

陰陽道による祭祀によって天皇の長寿祈願、国家安泰の祈願や天譴(てんけん)災異・疫病の蔓延による穢れを祓っていたのです。

 

陰陽道による政(まつりごと)の維持安定の為の技術や知識は、天文学、地理地勢学、暦学、仁術、栄養学など多岐に亘り、陰陽師が集結した陰陽寮とは天皇直結の最先端の技術官僚でした。

 

陰陽寮の仕事は主に四つの部門に分かれていました。

 

陰陽道・・・・・陰陽五行論による占術と呪術

 

天文道・・・・・天体運行を観測し、天の法則を陰陽五行論をもとに解析し、吉凶を予測する。

 

暦道・・・・・・方位や時間に関する吉凶を占う

 

漏刻・・・・・・時間を定め、それを伝える

 

行われる仕事にはそれぞれの部門ごとに占い、日時・方角・御忌などの勘申(かんじん)祭がありました。

 

祓いや祈願については陰陽道、造暦については暦道、天文密奏については天文道がそれぞれ行っていました。

 

造暦とは支那から伝わった暦を日本の実情に合うように作り直すことです。

 

天文密奏とは天体の星の動きを観測し、異変の兆しがあった場合に天皇に直接上奏する仕事です。

 

いずれも国家や天皇の吉凶を占い、ひとたび凶の兆しがあれば、陰陽頭(おんみょうのかみ・陰陽寮の長官)はそれを天皇に上奏していました。

 

国家の政策指針の全ては陰陽寮の陰陽師たちによって作られていたと言っても過言ではありません。

 

時代が下るほどに科学は進歩していると考える向きもありますが、実は平安時代の陰陽道は現代人が考える以上に高度な科学技術であったと言えます。

 

現代人は呪術(オカルト)は単に迷信として片付けてしまい、凡そ科学とは相反する概念であるとしていますが、呪術と科学は陰と陽の関係にあり、表裏一体であることを千五百年も前の日本人は既に論理的に理解し、尚且つ現実に活用していたのです。

 

天の兆しを見てその影響で地に於いて起きる事象の予測を為し、地の動きを見てその影響による生活、社会などの変化の予測を為します。

 

陰陽道とは天の動き、地の動き、政、人心を連動しているものとしてとらえ、これら一連の関係を読み解き、穢れを祓い、禍を遠ざけ、吉兆を呼び寄せる業(わざ)です。

 

現在でも正月元旦に行われている宮中祭祀である四方拝は陰陽道による祭儀です。また民間に伝承している五節句、人生儀礼、季節の行事のほとんどは陰陽道に由来しています。

 

五節句は正しくは節供(せちく)といい、季節の変わり目や節目に厄を祓い、無病息災を祈るために、神々に季節の食物を供えたことに由来している神事であり、五節句という呼び名のとおり、正月7日の人日(じんじつ)の節句、3月3日の上巳(じょうし)の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕(しちせき)の節句、9月9日の重陽(ちょうよう)の節句の5つの節句を意味しています。奇数は陰陽道では陽の数字で、本来ならば奇数の重なるこれらの日は縁起の良い日でしたが、奇数と奇数を合わせると偶数が生まれます。偶数は陰の数字であるため、その邪気を祓うために行っていた行事が五節句の始まりです。

 

 

 

上巳の節句

 

上巳の節句は現在では、女の子の誕生と成長を祝う「雛祭り」として一般に知られていますが、本来は年齢も性別も関係なく、草や藁〔わら〕で作った人形の体に人間の穢れを移し、健康を祈って災厄を祓うことを目的とした農村儀礼が行われていました。 現在でも、穢れを紙の人形に移して、それを川に流す「流し雛」の風習が残っています。

 

 

 

端午の節句

 

端午の節句は、菖蒲の花が咲く季節なので「菖蒲の節句」とも言われ、蓬や菖蒲の花の持つ強い香気で厄を祓うとして軒につるし、また菖蒲湯に入ることで無病息災を願いました。 また、「菖蒲」を「尚武」とかけて、男の子の誕生と成長を祝う「尚武の節句」としても知られています。

 

 

 

重陽の節句

 

重陽の節句は陽の数字である9が二つ重なる事から、陰陽道では最も良い日とされています。また菊の花の咲く季節と重なる事から「菊の節句」とも言われています。菊には長寿の力があると信じられ、8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭いたり、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた菊のお酒、または茱萸(呉茱萸)のお酒を飲み邪気を祓い長寿を願いました。

 

 

 

また人生儀礼としては帯祝い(安産祈願)、出産祝い、お七夜(命名式)、初宮参り、お食い初め、初節句(雛祭り・端午の節句)、七五三(三歳:髪置きの祝い、五歳:袴着の祝い、七歳:帯解きの祝い)、髪上祝い(十三参り)、元服(成人式)、厄年(厄祓い)、賛賀(還暦・古稀・喜寿・傘寿・半寿・米寿・卒寿・白寿・上寿・茶寿・皇寿)などがあります。

 

季節の行事としては、正月の屠蘇、どんど焼き、追儺(節分)、名越の大祓(茅の輪行事)、八朔(中元の元)、亥の子餅、師走の大祓などです。

 

以上の伝統行事はすべて陰陽道に基づく穢れを祓う神事であり、これらは日本の伝統文化の中に深く浸透しています。

 

しかしながら明治政府が近代化政策の下、明治3年に陰陽寮を廃止したことで、それまで陰陽師によって行われていた祓いとご祈願は神社が執り行うようになり、陰陽道も日本国民の記憶から失われてしまいました。

 

しかしながら現代に至るまで日本の伝統文化の中に根強く残り、陰陽道に基づく祓いであることを知らなくても、脈々と日本人の生活文化の中に息づいています。

 

 【宇宙の法則】

 

1)原因と結果

 

今、過ぎゆく現在の状況は、自分が誕生して以来今日に至る迄、たとえ無意識であろうとも、自分が思い描いた想念の結果として現れています。つまり、「今」は「過去」の結果であり、同時に「未来」の「原因」でもあると云う事です。

 

2)波長共鳴

 

波長共鳴とは、自分と同じ波動の人・物・事象が、自らの周りに磁石のように引き寄せられる現象のことです。

 

3)進化

 

全ての事象は進化し続けています。

 

4)陰陽五行説

 

陰陽五行説とは陰陽説と五行説という二つの哲学的な思想が合体したものです。

 

 

 

陰陽説

 

陰陽説とは、世界を対立する二元「陰陽」に還元し、森羅万象の状態を「陰陽」であらわそうとする理論です。

 

陰陽は相対的な相を示す概念であり、陽は陰を含み、陰は陽を含んでいます。

 

万物は、ある状況下では陽と現れるが、同じものであっても違う状況のもとでは陰と現れます。つまり、陰陽は、絶対的なものではなく、時と所に従って、反対物へと転化することもありうるのです。

 

「陰」と「陽」は対立する二元であるが、敵対するものではなく、宇宙の根源的実在である太極(たいきょく)によって統合されており、両者の交合によって万物が生まれます。

 

また両者は、たがいに引きあい補いあい、一方が進むと一方が退き、一方の動きが極点にまで達すると他の一方に位置をゆずって、循環と交代を無限にくりかえすと云うものです。

 

 

 

五行説

 

「木・火・土・金・水」の五元素によって自然現象や人事現象の一切を解釈し説明しようとする思想を五行説と言います。

 

即ち、あらゆる自然現象や人事を範疇毎に五つに整理し、それぞれが五行のいずれかに帰属するとみなす理論です。

 

 

 

「五行相克(そうこく)説」

 

五行同士の関係を闘争の相のもとに見ようとする理論です。

 

のように循環し、

 

木は土中の滋養を奪い「木剋土(もっこくど)

 

土は水流を封殺し「土剋水(どこくすい)

 

水は火に勝り「水剋火(すいこくか)

 

火 は金属を溶かし「火剋金(かこくごん)

 

斧は木を倒す「金剋木(ごんこくもく)」というように読みます。

 

 

 

 

 「五行相生(そうしょう)説」

 

相生説は、五行が対立することなく、順次発生していく様を説明する理論として生み出されたものです。

 

木  火  土  金  水  木というように循環し

 

木は摩擦により火を生じ「木生火(もくしょうか)

 

火は灰(土気)を生む「火生土(かしょうど)

 

土は金属を埋蔵し「土生金(どしょうごん)

 

金属は表面に水気を生じ「金生水(ごんしょうすい)

 

水は木を育む「水生木(すいしょうもく)」と読みます。

 

 

 

陰陽道とは以上のような宇宙の法則や陰陽五行説を基にして、

宇宙を貫く普遍の原理により、様々な自然現象や人事現象の意味と動きを解読する思想と技術の全体を指すものであります。

 【穢れとは?】

 

穢れとは「気枯れ」を意味しています。

 

つまり生命力が失われる状態を指します。ですから「悪」と云う観念とは異なります。

 

「穢れ・気枯れ」が身に降り積もる事で生命力が失われていき、病気になったり、事故に遭ったり、会社が倒産したりと云う禍が生じ、活き活きと人生を生きていくことが次第に困難になっていくのです。

 

そして最期は生命力が完全に失われて「死」に至ると云う事です。

 

ですから「死」そのものは将に「穢れ・気枯れ」なのです。

 

このことから日常生活における様々な悩み事や精神的な不安、病気などはすべて穢れが溜り、生命力、活力が失われる事によって引き起こされる禍と言えます。

 

人間が生きていく上に於いて、これらの好ましくない状況は少なからずついてまわりますが、穢れが原因であることを知れば、常に穢れを祓い続けることによって大事に至ることなく乗り越えていくことが出来ます。

 

穢れは多くの要因から生じるものであり、また人間が生きている限り、死に直面するまで日常的に常に穢れを受け続けますので、一度祓えば終わりということではなく、穢れが生じる度に祓い清める必要があります。

 

神道では祓いに始まり祓いに終わる、と言われるほど心身両面の穢れを祓い、常に生命力に満ち溢れている状態を保ち続ける事を最も重視しています。

 

穢れは目に見えないものなので分かりづらいかも知れませんが、目で見える穢れによって理解することが可能です。

 

ある心理学者の話ですが、夏の浜辺で花火の燃えカスが散らかっているところは周辺で凶悪犯罪が多発するとか、フロントガラスが割れた車を放置していると周辺でレイプや殺人が多発する、という事がアメリカで現実に起きているという事、逆に浜辺が清掃されていたり、壊れていない車を置いていても、このような犯罪は起きないことが立証されているとの事です。

 

このように掃除を怠って清浄ではない状態、また車のフロントガラスが割れている状態は穢れた状態であり、穢れを放置しておくと周辺に穢れが広がり、禍である凶悪犯罪が生じるという現象が起きるのです。

 

また家のガラスが割れていたり、不潔な状態だったりした場合は同様に家人に禍が生じます。

 

これは目に見える穢れの状態ですが、実際には穢れを目にすることは出来ないので、禍が生じるまで分からないことが多いと言えます。

 

日常生活で生じる様々な穢れを祓い、清々しく健やかな人生を歩んで頂く為に、是非、陰陽道による祓いをお受けになられることをお勧めいたします。

 

当会の浄化は陰陽道の方術による祓いであり、穢れを確実に祓い去る事が出来ます。

 

一人でも多くの方が当会の浄化によって素晴らしい人生を歩んでいただくきっかけになれば幸いです。

 

 

【陰陽道は祓いとご祈願】

 

 

 

陰陽道で最も重要なことは、祭祀つまり祓いとご祈願です。

 

陰陽道による祭祀とは、禍によって生じた穢れを祓ったり、怨霊、物の怪などの祟りを鎮める事です。

 

誰もが人生を楽しく有意義に生きていきたいと望んでいる事と思いますが、人生には思い通りにいかない事が多々生じます。

 

出来うる限りトラブルが無い事が望ましいのは当然ですが、人はトラブルや困難に遭遇することで初めて気が付くこともあるものです。

 

困難に遭遇すると云う事は、今までの自分の考え方に何らかの軌道修正が必要であると云うことを知る為にとても重要な事ですが、余りに大きな困難に遭遇してしまうと押しつぶされてしまい、人生を活き活きと生きていくことが難しくなっていきます。

 

大難を小難に、小難を無難にすることが出来れば、禍を福に転じて、より一層人生を充実させながら生きていくことが出来るでしょう。

 

陰陽道とは、先ず禍の原因となった穢れを祓って心身を清浄にし、次に自らの様々な人生における望みを願意としてご祭神に祈願して「ご利益を得る」のではなく「ご加護を頂く」ことで、無理なく楽しく人生を生きていくと云う「祓いとご祈願」が基本です。

 

つまり何事か自らの事をご祭神にご祈願するのであれば、先ずは穢れを祓って自らの心身を清浄にする必要があると云う事です。

 

穢れたままでは何事を為そうとしても必ず禍が生じることになります。

 

 

 

 

【穢れを祓う祭祀は陰陽師の専売特許】

 

 

 

神社に参拝する時、「お祓いをしてもらう」と云うことがあります。

 

神社には通常、鳥居を入ってすぐの入口付近に「手水舎(ちょうずや・てみずや)」と呼ばれる流水施設が置かれていて、お参りする際には、先ずここで手と口を洗い身を清めます。そしてご神前に上がってご祈願をする前には必ず「修祓(しゅばつ)」と言う儀式があります。修祓とは身にまとった罪、穢れを祓え戸で祓い清める神事です。

 

このようにご神前に上がる前には、心身の穢れを祓い清めて清浄にしてからご祈願をしてもらいます。

 

神社に於いてのお祓いは、ご神前に上がる前に心身を浄める為の祓いです。

 

ところで現在神社の神職によって執り行われている種々のご祈願(病気平癒・方除・厄除・安産・初宮など)や出張祭典(地鎮祭・井戸清祓い祭など)は明治以前は陰陽師の領域でした。

 

陰陽師と神職とは全く異なる職種でした。

 

神職とは神祗(じんぎ)祭祀を掌る神祗官であり、各地の神社の祭祀を総轄していました。簡単に言うと神職はご祭神を日々お祀りするのが仕事でした。

 

一方で陰陽師は天皇直属の陰陽寮に所属し、陰陽道の祭祀によって天皇の長寿祈願、国家安泰の祈願や天譴(てんけん)災異・疫病の蔓延による穢れを祓いました。

 

時代が下るにつれて次第に神道や仏教に習合され、また明治に入って陰陽寮が完全に廃止されたことで、現在では陰陽師が執り行ってきた祭祀が神職によって形式的に受け継がれてきています。

 

しかしながら陰陽道の祭祀による祓いとは、罪・穢れ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、怨霊、呪詛、怪事や凶事、凶兆などを様々な方術を用いて祓い去るものです。

 

祓いには呪符や呪具、大掛かりな祭壇を用いる場合もあります。

 

これらの祓いには単なる形式ではなく、正確に祓い去れたかどうかを見極める力量も必要となります。

 

神職による祓いは陰陽師の方術による祓いとは全く別物です。

【陰陽會は幸せで有意義な人生を送るお手伝いをします!】

 

我が国に於いては皇室から庶民に至るまで、また誕生からその生を終えるまで古くから陰陽道による祭祀や行事によって、穢れを祓い心身の清浄を心掛けてきました。

 

皇室に於いては宮中祭祀によって、庶民生活に於いては「祓い」を日常生活に織り込んだ陰陽道を発祥とする人生儀礼や季節の行事によって、常に心身の清浄を心掛けてきました。

 

日本人はこの世に誕生する際の安産祈願から始まって初宮詣、七五三などの様々な人生儀礼や節分、雛祭り、大祓などの季節の行事によって誕生から死に至るまで健やかに、禍を遠ざけて、明浄正直の誠で過ごす事ができるようにと、穢れを祓い神々に祈念してきました。

 

しかしながら敬神崇祖の念がすっかり廃れてしまった現代においては、「かみまつり」やこれらの儀礼を行っている日本人は減少し続けています。

 

多くの日本人は人生儀礼や季節の行事をただの慣例や商業的な習慣だと思ってその意義を失い、人生に於いて穢れを祓う機会をすっかり失ってしまいました。しかしながら身に就いた穢れを放置すると、自らにも降り積もり、更に人から人へとウィルスのように感染し広がって、思わぬ禍を招く原因になっています。またネガティブな感情も穢れの一つであり、それは不安・恐怖・怒り・嫉み・おごり・慢心・利己・無知などです。
 
これらのネガティブな感情である穢れが降り積もると、低層四次元界に存在している動物霊・浮遊霊・自縛霊・生霊・呪詛などにとり憑かれます。

 

このように憑依されると次々と新たな穢れを呼び寄せ、その結果、人間関係に支障をきたしたり、精神的、肉体的な様々な病気にかかりやすくなります。
 
悪いことが連鎖反応的に起こる事があるのは、穢れが穢れを引き寄せているからです。

 

一度穢れてしまったら清祓をしなければ、もとの状態に戻る事はできません。

 

近年、前代未聞の世界大恐慌、戦争、天譴災異、政治腐敗、資本主義の崩壊、新型ウィルスの蔓延、精神病の増加、猟奇的殺人など、様々な穢れが私達の身の周りに次々と起きております。

 

どのような穢れの中にあっても、陰陽道による方術によって心身の穢れを祓い清めることで、常に明き浄き正しき直き心を保ち続け、健やかな人生をお送りするお手伝いをいたします。

 

【陰陽道陰陽會の役割】

 

混迷する国難の時代にあって最も重要な事は正と邪の見極めです。

 

そして陰陽頭舊事希軍は正邪を見極める事を本分としてこの世に生を受けました。
 
正と邪とは陰と陽の関係でもあります。

 

正と邪は対極にありながらそれぞれを正しく使えば正しいものとなり、悪しきものとして使えば悪しきものとなる存在です。

 

全ては陰陽のバランスであり、政(まつりごと)をはじめ人間生活のあらゆることもまた陰と陽のバランスが重要です。この陰陽のバランスが崩れた時に政体は揺らぎ、國體も揺らぎ、天譴(てんけん・天の戒め)が生じ、個人のレベルでは様々な困難が生じます。
 
将に今般の未曽有の東日本大震災はこの政体の陰陽のバランスが揺らいだ事による天譴災異であり、政体さえ安定すれば更なる天譴は起こらないのです。このような観点から政体に於ける陰陽のバランスは国家安全保障にも関わる大問題であると言えます。

 

また個人レベルに於いても精神の荒廃著しく、古来より引き継がれてきた日本人の道徳心の崩壊によって判断基準が経済的な価値のみに重きを於いている事で、家族や共同体の絆が破壊されつつあります。

 

つまり目に見える経済(陽)を過信し、目に見えない道徳心(陰)を蔑ろにしていると云う意味で陰陽のバランスが崩れていると言えます。
 
一刻も早く政治を安定させ、国民が安心して暮らせる社会を取り戻す事、そして日本人が「敬神崇祖」を大切にして精神的価値を取り戻し、祖先伝来の祖国を護り続けることが、今最も求められている事でしょう。

 

陰陽道とは陰と陽のバランスをとるための業であり、国難である今こそ活かすべき業であると確信しております。

 

当会は平安時代から千年以上に亘って皇室を守護し続けた陰陽道の方術によって、豊かな自然に育まれ培われた我が国の伝統文化の継承と誇りある日本復古を目指し、東亜の安定と世界の平和に寄与することを目的としています。

 

 

【定期的な清祓の勧め】

 

陰陽會は基本的に会員制としており、定期的な清祓をお勧めしております。清祓の回数につきましては、可能であれば毎日の清祓をお勧めしておりますが出来れば1ヶ月に4回以上の清祓をお勧め致します。

 

清祓の回数は、毎月20日頃に翌月の清祓回数の確認の為『ご継続のご案内』を郵送いたしますので、月毎に清祓の回数を増減する事が可能です。

 

ご入会をご希望の場合には『入会申込書』に必要事項をご記入の上、メール・郵送またはFAXにてお送り下さい。

 

ご家族もご入会希望の場合、『入会申込書』をコピーして一人一枚とし、ご住所など重なる部分はどなたかお一人分ご記入頂ければ結構です。

 

初穂料の着金が確認できましたら、清祓祭を執行致します。

 

第一回目の清祓祭を執行した上、守護符、切札等をお頒かち致します。

 

その後は指定日までに翌月の初穂料をお振込み頂ければ、翌月1日にその月の第1回の清祓をした後、守護符等をお頒かち致します。

 

尚、3ヶ月間は仮会員と致します。3ヶ月間、毎月1回以上清祓を継続なさった方は4ヶ月目から改めて正会員として会員証を発行致します。

 

(但し、現在会員の方のご紹介による場合は初回から正会員とします。)

 

【法人・団体の清祓】

 

近年、極端な個人主義、拝金主義が蔓延し、社員が一丸となって会社に貢献しようという意識が低くなってしまっているのが実情です。
 
日本は今までに何度となく、様々な危機を乗り越えて参りましたが、これからは想像も出来ないような時代に突入することは、誰でも予感として感じておられることと思います。
 
このような時代を前向きに、柔軟に乗り切っていくには、頭でいくら考えても、どんなに経費削減をしても、またリストラで人件費を削っても、根本的な解決には至りません。

 

そこで当会では、このような時代を積極的に乗り越えていくために、法人・団体の皆様に法人会員へのご加入をお勧めしております。
 
法人会員の皆様の社運長久祈願祭を古式に則り、毎月厳粛に執り行います。
 
また社運長久祈祷御神木札(60cm、巾14cm)を1年に一体と、
毎月、御
神札を一体お頒かち致します。

 

 

 

※会社経営に限らず、個人による習い事、教室等の清祓いも可能です。

 

 

法人会員 初穂料・・・1社に付き毎月5万円

 

 

 

穂料一覧

会員の規約

特定商取引に関する法律に基づく表示

個人情報のお取り扱いについて

 

 

 

 

 









 

 

2013年11月 5日 (火)

桔梗だより 平成25年10月号

9月の陰陽會の祭典および行事

99日 重陽祭を斎行致しました。

2599_001 

 

2599_002



 

916日 敬老祭を斎行致しました。

25916_001

 

919日  十五夜祭を執行致しました。

25919_002



 

 

923 第八回晴明桔梗まつりを斎行致しました。

 

259238_003_2


10月の陰陽會の祭典及び行事予定

1010日 産巣日祈願祭・恵比寿講

1017日 神嘗祭遥拝式・十三夜祭

1020日 皇后陛下御誕辰祭

 

伊勢神宮の変遷 ()

現在の式年遷宮の原型は、持統天皇の下で行われたのが最初になります。

それまでは歴代の天皇(大王・おおきみ)は代替わりの度に王宮を遷していました。当時の王宮は掘立柱で建てられていましたが、腐食しやすい代わりに建てるのも容易なやり方でした。

王宮を遷すにあたっては、近くの場合もあれば、遠方の場合もありました。

代替わりの度に王宮が変わるのは、日本だけに見られた特異な慣行で、歴代遷宮と呼ばれます。但し、代替わりでなくても王宮を遷す場合もありました。

それは天災・飢饉・疫病の蔓延・内乱など、治世を大いに揺るがすような事態が生じた場合、宮を遷すことによって治世を立て直す目的があったと思われます。

しかしながら、不文律ながら、代が替わる毎に王宮を遷すと云う事はゆるがせにできない原則でした。

ところが壬申の乱を経て天武天皇が近江から飛鳥に王宮を遷した際は、既存の宮室を増設しただけで遷すことはありませんでした。

そして天武天皇は碁盤目状都市、藤原京建設に着手し、其の恒久の都の中心に藤原宮を位置付けました。

天武天皇は都の完成を見ることなく崩御しましたが、次の持統天皇即位の年に、伊勢神宮最初の式年遷宮が行われました。

この歴史的事実を鑑みるに、今迄、天皇の代替わりの度に王宮を遷す「遷宮」が、藤原京(宮)の建設によって歴代遷宮は停止し、その代わりに伊勢神宮の式年遷宮が始まったとも言えます。

後に藤原京は平城京へ遷りましたが、これは歴代遷宮ではなく、恒久の都の遷都であり、遷宮とは異なります。

何故古来から定着していた歴代遷宮から、伊勢神宮の式年遷宮へと切り替わったのでしょうか?

 初期の大和王権に於ける皇位継承は、現行の皇室典範が定める処の「長男を第一位とする」と云う明確な規則はありませんでした。

逆に大和王朝以前の古代の王朝では、末子を継承者とした場合が多かったのです。何故なら、出来るだけ各王朝の存続期間を長くする為には、末子で継承していった方がより長く続くからです。

大和王朝になってからも、長男が原則と云う事は絶対条件ではありませんでした。次男、三男、或いは嫡男である必要も無く、兄弟間や正室による継承など、大王の血が流れている事(先代を遡ることも有り)、母親が有力な家系の出である事などが暗黙の内の皇位継承条件でした。従って後継候補は多数存在した為、最終決定に向けては紛糾する事もしばしばであり、内乱にまで及ぶこともありました。

 皇位継承の度に数多の群臣から推挙される必要があり、大王の座は代替わり毎に総入れ替えされていたのでした。

 このように皇位継承によって全てが入れ替わったことを内外に示す為に、新しい場所に王宮が建設され、新しい大王が遷り住むことが「歴代の遷宮」だったと言えます。

 他国に例を見ない我が国に於ける王朝の此の慣行は、未だに諸説あり、明確な理由は分からないようですが、一つには先帝の死の穢れを避ける為、権力の集中を避けて群臣の発言力を担保する為、父と子が別居する事が習いであった為、などが挙げられています。

 しかしながら、先月号にも書きましたが、我が国には「常若(とこわか)」と云う神道の考え方がありますように、古きものよりも新しきものに価値を見出す国民性から鑑みるに、王権が交代すれば、新しい場所に新しい王宮を建設し、新しい権威が目に見える形で示されることで、政治的権威・宗教的霊威が再生されることを目的としたのではないかと思われます。

かつての「歴代遷宮」は現代まで続く伊勢神宮の「式年遷宮」と相通じるものがあります。

 代替わり毎に歴代遷宮を繰り返すことは、確かに「リセット」と云う意味に於いては非常に有効な手段ではありましたが、皇位継承候補者が数多存在している中にあって、王権の継続を望む立場にしてみると、非常に不安定な要素を孕んでいます。

段々と政権基盤が安定してくると、直系への継承を画策する大王の力が強くなり、歴代遷宮は徐々に終息に向かい、舒明天皇から天武天皇に至る時には、同じ場所に宮を建て替える動きが出て来ました。(次号に続く)

参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」武澤秀一著 

« 2013年10月 | トップページ | 2014年1月 »