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2014年1月 1日 (水)

桔梗だより 成25年12月号

11月の陰陽會の祭典および行事

113日  明治祭を斎行致しました。

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1123日  新嘗祭・日本景気復興祈願祭を斎行致しました。

 

 

 

12月の陰陽會の祭典及び行事予定

1223日  天皇御誕辰奉祝祭・天長祭

1224日大正天皇多摩陵遥拝式

1231日師走大祓式・除夜祭

伊勢神宮の変遷 ()

伊勢神宮は内宮と外宮と云う二つの宮から成っています。この二つの宮には意外な歴史がありました。

現在一般的に内宮と呼ばれる「皇大神宮」、外宮と呼ばれる「豊受大神宮」の二つの大神宮があります。

二つの神宮の名称には変遷がありました。平安初期の延暦二十三年(八〇四年)三月、外宮から朝廷に提出された報告書に於いて、外宮は「止由気(とゆけ)太神宮」と名乗っていました。少し遅れて同年八月には内宮から朝廷に報告書が出され、そこでは内宮は「伊勢太神宮」と名乗っていました。

つまり平安初期にあっての両宮の正式名称は「伊勢太神宮」「止由気太神宮」だったと云う事です。

ところで今日の内宮の正式名称は内宮は「皇大神宮」、外宮は「豊受大神宮」ですが、外宮には「皇」と云う字がありません。これは「皇」とは天皇、皇祖、皇統と云う意味合いであり、内宮と外宮には大きな差異が設けられている事を示しています。

現在では内宮と外宮は並称されると云う事が広く定着していますが、当初からこのように両宮が並称されていた訳ではありませんでした。先ず伊勢太神宮(=皇大神宮)を「内宮」と呼ぶことから始まり、その後止由気太神宮(=豊受大神宮)を「外宮」と呼ぶようになったそうです。

江戸初期、水戸光圀の下で編纂に着手された「大日本史」によると、内宮・外宮と並称されるようになったのは、平安中期・朱雀天皇の御世からだと言われています。

神宮を「内宮」と「外宮」のセットで構成する発想は道教に基いていると考えられると言われています。但し、本来の道教の思想では、内宮も外宮も死霊の世界に属し、内宮は山上に、外宮は洞窟の中にあると云う事だそうですから、道教の思想をそのまま取り入れたとは考えにくく、日本流に醇化されたと考えられます。

内宮、外宮のそれぞれの由来ですが、内宮は皇室の祖先神である天照大神をお祀りしており、垂仁天皇の御世に大和から伊勢の地に遷ったのは既に記した通りです。

外宮は天照大神の食事を司る豊受大神をお祀りしており、外宮では毎朝・夕二回、御饌(みけ)殿で天照大神に御饌を捧げています。

日本書記には外宮への言及が無く、古事記にはありますが、平安時代以降に書き入れられたというのが有力な説だそうです。

恐らくは豊受大神とは本来は伊勢の地の地主神であり、大和から遷って来られた天照大神をお迎えして、服属したと考えられます。

地主神(ぢぬしのかみ)とはそれぞれの土地におわす神の事であり、その土地を守護する神でもあります。

元々は地主神がお祀りされていた伊勢の地に、後から遷って来られた天照大神をお祀りするにあたって、地主神も鄭重にお祀りする事で争いを避けたと言えます。しかしながら神格は天照大神が上位であるとしたことから、地主神は天照大神に御饌を捧げると云う服属の形をとったと云う事でしょう。

その後、明治政府によって内宮上位が決定的にされるまで、外宮の神職らによって、地主神の勢力回復を目指した動きが展開されて行きます。                  (次回に続く)

参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」武澤秀一著

平成廿五年を振り返って

今年は熱田神宮に於いては創祀千九百年と云う事で五月八日には「創祀千九百年大祭」が斎行されました。また出雲大社に於いては五月十日、「平成の大遷宮」と称して「本殿遷座祭」が盛大に斎行されました。更に伊勢神宮に於いては「第六十五回式年遷宮」が行われ、遷御の儀が内宮に於いては十月二日、外宮に於いては五日に斎行されました。

このように、神話の時代から続く日本の神々をお祀りする神社に於いて、それぞれ盛大に祭儀が執り行われた、非常に稀有な年でありました。

一方、政治の世界にあっては第二次安倍内閣が本格始動して、様々な動きがありました。年始早々、安倍首相によるTPP交渉参加と云う発言によって、保守陣営には動揺が走りましたが、その後の四月二十八日、天皇皇后両陛下のご臨席を賜る政府主催による主権回復の日の開催、安倍総理による硫黄島への訪問、ご遺骨収容を促進する為、滑走路移設を提案、支那・朝鮮を取り囲むべく、周辺諸国へ積極的な外交など、保守が安堵の思いをしたのも束の間、経済政策に於いてはTPP交渉妥結に向けた積極的な対応、国の形を変え、國體破壊にもつながる恐れの高い新自由主義政策の推進、デフレからの脱却もままならない状況下での消費税増税決定など、次々と日本の未来に暗雲を招き寄せるような政策が打ち出されています。

また、それらの国運を衰退させる政策と連動するかの如く、大型台風の襲来、暴風雨、竜巻、地震など天譴災異が頻発した一年でもありました。年初の桔梗だよりにも書きましたが、巳年には歴史的な事件が起きています。

源義経が壇ノ浦で平家を破り、平氏一門が滅亡したのが一一八五年の巳年、一九〇五年に日本海海戦の大勝利で日露戦争が終結、一九四一年には真珠湾攻撃で大東亜戦争開戦、一九八九年には昭和天皇が崩御され、時代が昭和から平成へ、そして二〇〇一年から二十一世紀が始まりました。

巳の時は、一日の半ばになろうとする時刻であるところから、物事の盛りの頃を意味しており、良きにつけ悪しきにつけ、物事や時代が一つのピークを迎えて終わりを告げ、新たなスタートを切るのが巳年です。

今年の巳年は確かに安倍政権発足によって新たな時代を迎えたやに見えましたが、実際には「戦後体制」が最後の悪あがきの如く中々その終焉を簡単には迎えさせじと云う、古い時代と新しい時代の綱引きが未だに決着を見せないまま、次の午年を迎えようとしています。扨て、来年は如何なる年となりますでしょうか。

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