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2014年4月

2014年4月17日 (木)

桔梗だより 平成26年3月号

2月の陰陽會の祭典および行事

 

23日 追儺式執行

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3月の陰陽會の祭典及び行事予定

33日  桃花祭 執行

321日 春季皇霊祭遥拝式

 

伊勢神宮の変遷 ()

 密教の興隆と共に、神宮に於いては両部神道が浸透するなど、本来神道が中心である筈の場所に於いて、仏教勢力に侵食された時期がありましたが、その後も朝廷の権威が衰えて、武士が台頭するようになると、神宮の中での内宮対外宮と云う対立も生じてきました。

 本来は内宮の方が外宮よりも優位な立場にあった筈でしたが、伊勢神道(渡会神道・外宮神道)が起こり、外宮が内宮より上位であるとする説を唱えたのです。

 伊勢神道は伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって唱えられ、外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢(かいびゃく)に先立って出現した天之御中主神や国常立尊と同一視して、内宮の祭神である天照大御神をしのぐ絶対神とし、外宮を内宮と同等、あるいはそれ以上の権威あるものとして伊勢神宮における外宮の地位の引き上げを目指しました。

 この内宮対外宮の争いは流血事件や放火事件を伴うほどの激しさで、正殿が血で穢されたり、心の御柱が損傷したり、宇治の町が焼かれるなど、大混乱が生じたようです。

 これら一連の事件の取り調べに当たっていた神祇官高官の吉田兼倶(よしだかねとも)が、自らがお祀りしていた吉田神社の境内に伊勢神宮の御神体が飛来したと喧伝し、時の天皇のお墨付きも得た事から吉田神社は一気に権威を高め、その後、神道界に於いて吉田神道が隆盛を誇ることになります。吉田神道は仏教・道教・儒教の思想の他、陰陽道の教理や儀礼、また密教の加持祈祷をも取り入れた、総合的な神道説とされています。江戸時代には徳川幕府が制定した諸社禰宜(ねぎ)神主法度で神道本所として全国の神社・神職を支配下に置き、明治時代まで隆盛を誇りました。現代まで続く日本人の「神仏混淆」の考え方は、両部神道や吉田神道の影響が多大であると言えるかもしれません。

 これらの大混乱と、朝廷の権威の失墜、武士の台頭によって、式年遷宮は滞り、一四六二(寛正三年・室町時代)年の第四十回から一五八五(天正十三年・安土桃山時代)年迄の百二十三年間、行われることはありませんでした。

百二十年以上も式年遷宮が行われなかったことで、神宮の建築技術や社殿の配置等の伝承も、また内宮と外宮の闘争の末に内宮の優位性も曖昧になってしまいました。内宮が優位であるにも拘らず、通常の祭儀が外宮先祭(せんさい)とされるのは、このような長い闘争の末に慣行となってしまったからでしょう。しかしながら式年遷宮に関しては復興の際に内宮先祭の朝廷の勅命が下り、古代に於ける内宮先祭の精神を重んじる事になりました。

一五八五年、長い中断を経て式年遷宮が復興した時、内宮・外宮が同時に催行されることになりました。それ以来今日まで、内宮・外宮の式年遷宮は同時に催行されています。

天武天皇の構想に始まり、持統天皇によって確立された伊勢神宮の式年遷宮は、長い歴史の中で一時期中断はあったものの何とか引き継がれ、明治維新の「王政復古の大号令」によって、再び神宮の意義が高まりました。

明治維新は「神武創業」を理想とし、実際には天武・持統朝に成立した古代律令制が形式上のモデルとされました。明治二年三月十二日、明治天皇は伊勢神宮を御親謁になられましたが、天皇が伊勢神宮に御親謁になられたのは持統天皇以来のことでした。そしてその年の九月には第五十五回式年遷宮が行われました。 

明治天皇が神宮を御親謁になられたことは、神武天皇が皇祖神をお祀りしたと云う日本書記の記述に依拠していると思われます。つまり神宮の御祭神である皇祖神、天照大御神を初代神武になぞらえた明治天皇が御親謁されることで、明治維新は神武創業を理想としていることを広く国民に明らかにされたということでしょう。

その後、伊勢神宮を頂点として、全国の神社を序列化し、「復古」の動きが急速に高まりを見せました。厳格な序列の体系が新政府によって構築され、全国津々浦々、全ての神社は神宮に従い、支え、お守りすると云う徹底強化が古代を遥かに凌いで行われました。更に神宮に対してもそれまで対立していた両宮に対して「内宮優位」の是正が厳命され、神域の整備、不要な殿舎の撤去、尊厳護持を図ることなどが打ち出され、相当に整備されました。

明治になってからの二度目の式年遷宮に向けて、日本の近代化と共に國體を明徴にする動きが加速していきます。(次回に続く)

参考文献「伊勢神宮と天皇の謎」武澤秀一著

 

建築にまつわる話(二)

 前回は土地選びについて書きましたが、今回は間取りについてです。近頃は風水師と云う人達が、陰陽道に基く考え方を取り込んで、それらしく喧伝していますが、彼らが行っている事は支那で言うところの風水でもなく、九星気学などをアレンジしたものであり、殆どが無意味なファッションに過ぎません。

 鬼門・裏鬼門と云う考え方は陰陽道に基くものであり、支那にはこの考え方はありません。鬼門とは北東(丑寅・うしとら)の方位の事で、陰陽道では鬼が出入りする方角であり、万事に忌むべき方位です。裏鬼門とは鬼門と反対の南西(坤・ひつじさる)の方位で、鬼門と同様に忌むべき方角です。

人家に於いては、鬼門除けとして鬼門の方角に桃の木を植えたり、鬼門の反対の方角が申(さる)であることから猿の木像を鬼門除けとして祀りました。京都御所の北東角には屋根裏に木彫りの猿が鎮座し、鬼門を封じています(猿ヶ辻)。

 また都市計画に於いては平城京に於いては鬼門に東大寺、裏鬼門に植槻八幡宮、平安京では大内裏から鬼門に比叡山延暦寺、裏鬼門に石清水八幡宮、鎌倉では幕府から鬼門に荏柄天神社、裏鬼門に夷堂、江戸に於いては江戸城から鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺が配置され、それぞれ禍を遠ざけるべく配置されました。

 人家に於ける間取りでは、鬼門に当たる方角には門・玄関など人の出入りする場所や、蔵などその家にとって重要な場所、水屋(台所)・便所・風呂などの水回り(排水など汚れた水が流れる場所)やごみ置き場などの不浄の場所を配置する事は、穢れが生じ、穢れから禍をもたらすので、その家の行く末が案じられます。

 近年は設計士にも建て主にも、このような鬼門に関する知識が乏しく、見た目や間取り重視で、鬼門・裏鬼門を疎かにした設計が大半であり、穢れを軽視することから様々な禍が生じている事が数多くの事例で見受けられます。

 鬼門・裏鬼門は単なる迷信ではありません。これらを安易に考えていると、禍によって人生を台無しにしてしまう事もあります。

 新築住宅を建てる際にも、中古住宅を買う場合にも、間取りには十分配慮して、見た目や使い勝手の良い間取りだけを見て決める事の無い様に注意して下さい。

 しかしながら、既に入居している家が良くない間取りになっている場合、転居しなければならないのかと、懸念されることもあるかと思います。勿論、経済的に余裕があれば転居されることも一つの方法ですが、陰陽道では「封じる」手段がありますので、ご相談頂ければ個別に対処方法をご提案申し上げます。

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